浅羽直之は決断していないか




 SFマガジンで連載中の宇野常寛氏の評論、「ゼロ年代の想像力」を読んだ。セカイ系作品として『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』を上げ、主人公が自分では何も決断しないと断じている。
 『ほしのこえ』はまだ見てないし、『最終兵器彼女』もちゃんと読んでいないので分からないが、『イリヤの空、UFOの夏』の主人公浅羽直之は決断している。三巻の虫を掘り出した行為が決断でなくて何だと言うのだ。これが決断と呼ぶに値しないと言うのなら、そう言う人は浅羽と同じことを出来るのかと問いたい。また、四巻でイリヤの前で叫んだシーンでも決断している。少なくとも私は今まで生きてきてこんな重要な決断をしたことなどないぞ。
 また、以前、浅羽が全く成長していないという感想を見て驚愕したことがある。『イリヤの空、UFOの夏』は典型的な成長小説ではないか。ラストシーンは浅羽の成長を鮮やかに示している。少なくとも私は今まで生きてきてひと夏でこんなに成長したことなどないぞ。
 ここまで考えて気がついたのだが、私は浅羽の行為を現実の尺度で評価している。浅羽は自然主義的リアリズムに基づいて描写されていると感じているからだ。一方、浅羽のことを決断しないとか成長していないと評価した人は、まんが・アニメ的リアリズムに基づいて評価したのではないだろうか。確かに、浅羽の決断は夜神月やルルーシュに比べればしょぼいかもしれない。しかし、それは『おおきく振りかぶって』の西浦高校野球部がアストロ球団より弱いと言っているようなものではないのか。
 ただ、『イリヤの空、UFOの夏』は全編が自然主義的リアリズムによって書かれているのではない。イリヤや水前寺など、周囲の人間はむしろまんが・アニメ的だし、世界観もそうだ。で、あるから、それらと比べて浅羽がなさけなく見えてしまうのはしょうがないのかも知れない。イリヤの決断と比べれば、浅羽の決断は確かにしょぼい。
 以前、SF書評家が『イリヤの空、UFOの夏』について、水前寺みたいなキャラがもうちょっと現実的だったらすんなり読めるのに、という趣旨のことを書いていた。おたくの読者は浅羽にもっと超人的部分を持ってほしいと感じていて、文学よりの読者は水前寺をもっと現実的にしてほしいと思っているのかもしれない。
 ならば、『イリヤの空、UFOの夏』は自然主義的リアリズムかまんが・アニメ的リアリズムのどちらかに統一して書いた方が良かったのだろうか。私はそうは思わない。『イリヤの空、UFOの夏』は、ライトノベル読者に広く読まれ、かつ、SF読者など、普段ライトノベルを読まない層にもある程度浸透した。それは本作が、色々な水準のリアリティを上手く共存させているからではないだろうか。



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