免罪符化するおたくリベラリズム――AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜感想
おたくメディアではキャラが立っていることが尊重される。大塚英志氏がライトノベルのことをキャラクター小説と呼んだのが象徴的だ。ライトノベルの面白さを支えているのは、ぶっとんで個性的なキャラクターだ。で、あるからして、ライトノベルをはじめとしたおたくメディアでは、変なキャラクターに寛容な、リベラルな作品が多い。変なキャラクターは自由闊達に暴れまわってこそ魅力を発揮するからだ。例えば涼宮ハルヒが厳格な校則にがんじがらめにされて、最初から最後まで優等生的にふるまっている『涼宮ハルヒの憂鬱』なんてものがあっても、つまらないし、全然売れないに違いない。
私はおたくリベラリズムが好きだ。他者に寛容であれ、という主張は、かなり普遍的に正しいと思う。だが、それが、「私が変であることに対し、私は寛容で、周囲も寛容であるべきだ」という風に、私が変わらないための免罪符として作用してしまうとなると、ちょっと問題なのだなあ、ということに気づかされたのが、『AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜』(田中ロミオ著、ガガガ文庫)だ。
2008年7月20日の朝日新聞に、少女小説の祖、吉屋信子の特集記事が載っていた。その中で、氷室冴子が「女の子が女の子であることがそのまま祝福されている吉屋信子の世界は、つまり<私>が<私>でいていい世界でもあったのだ」と評しているのが印象深い。少女が社会的に抑圧されている時代に、あなたはあなたのままで良い、と言うことが読者の心に響いたことは想像に難くない。ライトノベルもおたくが社会的に抑圧されている時代に、あなたはあなたのままで良いということで、おたくを救ってきたという側面は確かに存在する。
だが、現代。おたくはもはやそれほど抑圧されていない。両親もしばしば寛容だし、漫画もアニメもゲームもあなたはあなたのままで良いと大合唱している。青少年が成長するためには抑圧と承認の両方が必要だ。だから、田中氏はあえて抑圧を、それも頭ごなしの抑圧ではなく、読者に寄り添った抑圧をするためにあえて火中の栗を拾ったのだと思う。
ライトノベルもただ売るためだけに、読者の耳に心地よいことばかりを言っていては、そのうち、青少年にもっとも寄り添った小説としての地位を追われてしまうのではないか。大切なのは、本当に読者のことを思っている親身さだ。
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