実現可能な擬似家族――ばけらの!感想




 宇野常寛氏のことは過去に何度か批判した。氏は初めに東浩紀氏を叩いてのし上がるという戦略ありきで、初めから美少女ゲームやライトノベルを叩くという結論ありきで議論を組み立てている。故に、『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』を見逃しているなど、問題が多い。
 だが、ポスト決断主義がコミュニタリアンであるという主張はおそらく正しい。かっての村社会に比べ、人と人の結びつきは弱まっており、人間は足りないものを求めるからだ。
 「家族」がテーマの作品が最近目に付く。黒澤清監督の『トウキョウソナタ』など、若手映画監督が次々と「家族」がテーマの映画を撮影しているし、NHKが朝の連続テレビドラマも大河ドラマも「家族」をテーマにしている。
 ここで描かれるのはかってのような血で結びついた大家族ではない。現代では、血でつながった家族は機能不全を起こしている。一方、血族ではない擬似家族がしばしば従来の家族の役割を代行する。

 杉井光氏も広義の家族ものを書き続けてきた作家だ。氏の商業作品は二つの要素に分けられる。一つが「はかない擬似家族が仲間を救う」話。もう一つは「旧弊な家族が身内を犠牲にする」話だ。「狭義の家族」が先天的であるのに対し、「擬似家族」は後天的に獲得するものだ。両者の対比から、心地よい共同体は自分の手で得るものだというメッセージが読み取れる。
 しかしながら、みなが心地よく過ごせるようなはかない擬似家族など、実現可能なのだろうか。
 BSまんが夜話「よつばと!」の回で、『よつばと!』が描いているような世界は現実には存在しないからせつないのだという指摘があった。『神様のメモ帳』のニート探偵団や『さよならピアノソナタ』の軽音楽部もあまりに素晴らしくてはかなくて、とても現実には存在し得ないと感じる部分があった。
 だが、『ばけらの!』は違う。『ばけらの!』の元となった池袋作家集団「いけぬこ研究会」は現実に存在する。故に、『ばけらの!』で描かれているような擬似家族は決して実現不可能ではない。杉井氏が仲間と沖縄旅行に行ったのに、ほとんどホテルにカンヅメだったと言うブログを読んだ時、そんなに原稿が切羽詰っているなら、旅行に行かなけりゃ良いのにと思ったものだが、それは間違っていた。はかない擬似家族は、それだけの対価を払うほど大切なものだったのだ。
 文学の重要な仕事は、読者に希望を与えることだ。『ばけらの!』そのものより、池袋作家集団の実践こそが文学だ。

PS.トップランナー「有川浩」の回を見ていた所、氏が伴侶とベタ甘ラブコメを実践していることが分かった。有川氏のラブコメは現実にはありえないと評されることが多いが、そんなことはなかったのだ。この実践も池袋作家集団の実践同様、素晴らしい。



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