ミステリーと文学の衝突――ボトルネック感想




(本稿にはボトルネックの抽象的ネタばれを含みます)

 『ボトルネック』(米澤穂信著、新潮文庫)の魅力は何といってもヒロインのサキだろう。米澤作品のヒロインはあまり係わり合いになりたくない人が多いのだが、サキとはすごく係わり合いになりたい。私が主人公のリョウの立場だったら、サキにだだ甘えしてしまうことだろう。
 しかし、本稿で取り上げるのは、サキについてではない。最後の一文についてだ。
 果たして最後の一文は必要だろうか。
 『ボトルネック』の結末はリドルストーリーになっているのだが、最後の一文があるせいで、普通の解釈をすれば主人公のリョウの行動が一方に定まっているのだ。

 ミステリーは読者が作品に対してとり得る解釈の数が謎が提示された時点で極大になり、以降減少する、特殊なジャンルだ。
 エントロピー増大の法則に従えば、解釈の数は後半に進むほど単純に増加するはずであり、ミステリーが作者による作為性の強いジャンルだということが分かる。
 ミステリーでは最後に作者が読者に唯一解を提示することが求められる。読者に、作中で探偵が示したよりもスマートな解を示されたら、その作品はミステリーとして完成度が低いということになる。
 東野圭吾氏の『どちらかが彼女を殺した』のように作者が解を示さずに終わる作品でも、示していないだけで、作者が想定している唯一解は存在する。ミステリーの作者が謎の解を示さずに作品を終え、「トリックや犯人は全然考えてないんで、読者が自由に考えて下さい。」と言ったら、ミステリーの読者は怒り出すに違いない。
 ミステリーとして見た場合、『ボトルネック』最後の一文は序章で張った伏線を回収して唯一解へ導いている重要な一文だと言えるだろう。

 一方、文学では、解釈多様性が尊ばれる。純文学ではよく、「作品にオチをつけるな」と言われるが、それは、唯一解を提示するなと言っていることに他ならない。
 以前も引用したことのある『未来形の読書術』(石原千秋著、ちくまプリマー新書)の以下の記述は、文学が解釈多様性を重んじる理由の端的な説明になっている。
 しかし、これとは別の意味での時間による風化がある。それは、読者の解釈によって言葉の隙間が埋め尽くされ、それ以上新しい読みを生まなくなることだ。そうなれば、誰が読んでも同じ読み方しかできないことになる。それは、小説にとって死を意味する。
 従って、文学として見た場合、最後の一文は読者による解釈の隙間を狭めた蛇足だと言えるだろう。

 純度100%のミステリーで文字通りミステリーに”淫してみた”『インシテミル』以外の米澤穂信氏の作品では、大なり小なりミステリーと文学が衝突している。そこが氏の魅力であり、さらなる飛躍の鍵でもあるのではないだろうか。



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