亡国のイージス 感想





 登場人物個人の物語としては抜群に面白い。だが、国家論としては賛同できない。というのが『亡国のイージス』(福井晴敏著、講談社文庫)を読んだ感想だ。
 テロリストに占拠されたイージス艦の中で、登場人物達はそれぞれに重大な決断を迫られ、自らの人生をかけて選び取る。他者との間に強固な壁を築いていた如月行の壁が溶けていく過程には涙腺をやられたし、仙石恒史が個人としての決断をするシーンはぐっと来る。彼らの行動は時に迷いながらも、最終的には自らの信念を貫いていて誇り高い。それは立派だと思う。だが。
 本書に繰り返し登場する論文には以下の下りがある。

<重要なのは、国民一人一人が自分で考え、行動し、その結果については責任を持つこと。それを「潔い」とする価値観を、社会全体に敷衍させ、集団のカラーとして打ち出していった時、日本人は初めて己のありようを世界に示し得るのではないだろうか>

前半は良い。だが後半は糞食らえだ。何で一人一人違う考え方の個人が同じカラーを持たねばならないんだ。私の感じる本書への違和感はこの一点に尽きる。こんな社会が実現したら、「てきとーに生きるから、他の人が失敗しても責めないようにするよ」とかいう人は極めて生きづらいに違いない。

 大塚英志さんは「物語消滅論」の中でイデオロギーに代わって物語の因果律が社会を動かし始めたと指摘し、批判している。「亡国のイージス」も物語の力で現実の政治を動かそうとしている。それは問題提起としては意味があるが、それ以上であってはならない。何故なら、現実の政治は物語ではないからだ。政治を行うのは、正義の味方が勝つためでも、カタルシスを得るためでも、国家としてアイデンティティを確立するためでもない。少しでも世の人々の不幸を取り除くためだ。故に、政治は地道に現実的に行わねばならない。エンターテイメントとして優れている物語は確実に、現実とは異なってしまう。本作の中で、しばしば「これが戦争の現実だ」と語られるが、間違っている。現実の戦争はもっと地味にかつ確実に人が死ぬものだし、兵士の人生の物語とは無関係に、唐突に死が訪れるものだからだ。

 しかしながら、本作が非凡な所は、テロリスト達が唱える国家的大義が単なる自己正当化のための方便であり、真の動機は単なる私怨にすぎない点だ。人は私的感情でしか動かないというのは実感として納得がいくし、現実に大層な国家論をぶっている人達は、私生活での鬱憤を、諸外国にぶつけて発散しているようにしか見えない。自ら国家論を述べながら、それがしばしば私的感情に因るものだと表明する作者の態度は誠実だし、単なる作者の意見の押し付けになっていない所は高く評価したい。



トップページに戻る