文学は何ができるか――”文学少女”と死にたがりの道化 感想



 (この書評は『”文学少女”と死にたがりの道化』のテーマをあからさまにばらしています。これを読む前に、作品を読むことをお勧めします。っていうか読め。)

 文学は何ができるか、というテーマに関しては、多くの人が発言してきた。
 保坂和志さんは『書きあぐねている人のための小説入門』の中で小説を「誰も見たことがない」ものを「自分も含むすべての人間に向けられた言葉として」つくりだし、「言葉を根底で保障する」ものだという意味のことを書いている。
 大塚英志さんは『物語消滅論』で文学が「無防備でむき出しの状態の「私」に対して」殻を与え、自我形成を助けるために必要だと主張している。
 逆に新城カズマさんは『ライトノベル「超」入門』でフィクションを「なんで「面白いだけで読んじゃいけないんだろう。」と「役に立たなければいけない」みたいな言説を批判している。

 これらの様々な意見に対し、『”文学少女”と死にたがりの道化』(野村美月著、ファミ通文庫)のヒロイン天野遠子先輩ならこう言うのではないだろうか。「どれもその通りだと思うわ。」と。

 遠子先輩にとって文学は直接的な意味で必要不可欠だ。何しろ遠子先輩ときたら「水を飲みパンを食する代わりに、本のページや紙に書かれた文字を、美味しそうにむしゃむしゃ食べる」妖怪?なのだ。物語に登場する文学少女は数あれど、かってこれほどまで切実に文学を必要としていたキャラクターがいただろうか。

 本作のテーマは共感だ。本作には「自分と他人の感じ方に、大きなズレがある」と感じる人物が登場する。他者と共感できない苦しみが物語を大きく動かす。
 本作では太宰治の『人間失格』が作品の骨格に埋め込まれているのだが、その太宰について、遠子先輩は
「この潜在的二人称が生み出す太宰の最大のマジック。それは、作者と作品への”共感”よ」
と解説している。確かに共感――読者に、そう感じているのは君だけじゃないんだ、と言ってあげること――は文学の役割の一つだ。それによって救われる読者も多いだろう。だが、この小説は、共感の影の面も炙り出す。再び遠子先輩の言葉を借りるなら「落ち込んでいるときに読んだら、どんどん真っ暗な海に引きずり込まれちゃう」のだ。
 さらに、もし人が共感によってしか救われないのだとしたら、共感できない人はどうしたらよいのだろうか。この難題に、語り手の心葉が、そして遠子先輩が立ち向かう。

 遠子先輩のすごいところは、好き嫌いをしないところだ。心葉が書いた変な三題噺を、遠子先輩は「ヘンな味〜〜〜〜。マズイよ〜〜〜〜」とかいいつつもちゃんと食べている。そしてクライマックスの長台詞。具体的内容は伏せるが、この台詞の長さこそが「共感できない人はどうしたらよいか」という問いに対する答えになっている。

 人がそれぞれ違っていることを受け入れること。それこそが文学が私たちに教えてくれることではないだろうか。

 文学にはきっともっともっと色々な魅力があるはずだ。「物語や文学を食べちゃうくらい深く激しく愛している」天野遠子先輩が、次は文学のどんな側面を見せてくれるのか、どんな作家を取り上げるのか、物語食いの能力をどう発揮するのか、次作が待ち遠しい。そう、大切なことを一つ忘れていた。人を楽しませること、待ち遠しくさせることも、文学の素敵な効能だ。



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