広き門も認め、それでもたった一人狭き門へ――”文学少女”と神に臨む作家 感想




 (ネタばれを含みます。)
 『”文学少女”と神に臨む作家』(野村美月著、ファミ通文庫)は作者の決意表明だ。野村さんは、本作で、本当に狭き門をくぐった。

 文学少女シリーズは、様々な愛の形を描いた小説だ。
 憎しみ、傷つけあう愛。温かく寄り添う愛。届かない愛。燃え上がる愛。不器用な愛。崇高な愛。醜い愛―― 
 作者はそれらをひたすらに並べる。決して貴賎も上下もつけない。
 文学少女シリーズの末尾をしめくくる本作では、「広き門」と「狭き門」の対立が軸になる。心葉を「広き門」へと誘うななせに対し、遠子は「狭き門」をくぐらせようとする。結局、心葉は「狭き門」をくぐる。だが、作者は、「狭き門」が「広き門」より勝っていると主張しているわけではない。何故なら、遠子先輩を育てたのは「広き門」をくぐった結衣だからだ。生き方に正解はない。だが、「神に臨む作家」になるのなら、「狭き門」をくぐらねばならない。作者はそう主張する。

 作者のデビュー作、『赤城山卓球場に歌声は響く』はライトノベルには珍しい、友情小説だ。『BAD DADDY』は親娘の物語だし、恋愛が主軸の『うさ恋』でも、友情が印象的に描かれる。恋愛も、友情も、肉親の愛も、どれも等しく尊い。恋愛至上主義の現代にあって、作者の姿勢は一貫している。
 だが、『文学少女』シリーズで変わったこともある。主人公に狭き門ををくぐらせたことだ。これまでの野村作品の主人公は最終的に広き門を選択してきた。それは温かさでもあるが、甘さでもあった。狭き門をくぐらせることで、本作は主人公が本当の意味で成長した、初めての作品になった。

 この作品で、作者は心葉の口を借りて、二つのことを宣言した。
 「現実」をそのまま描く自然主義ではなく、そこに想像力をぶつけて、新たなものを生み出すという方法論を取ること。
 そして、狭き門をくぐって、神に臨む作家になること。
 ここまで書いてきて、私は『私の男』を連想した。『私の男』も様々な愛の形を描いた小説であり、作者が覚悟を示した作品だからだ。
 『このライトノベルがすごい!SIDE-B』によると、作者は大学のころ、告白された時、『小説家になるまで誰とも付き合わないのでごめんなさい』と断ったのだという。冗談めかした語り口だったので、そんなふりかたをするなんてひどいと思っていたのだが、『”文学少女”と神に臨む作家』を読み終わった今では印象が違う。作者は本気で小説のためなら恋愛など捨てても良いと思っているのだ。ほのぼのした作風とは裏腹に、何て壮絶な覚悟だろう。
 狭き門の前で私はまだ立ちすくんでいる。

 (以下、次回か次々回更新の「狭き門とは何か」に続く)



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