狭き門とは何か――”文学少女”と神に臨む作家感想




 (本稿は『”文学少女”と神に臨む作家』と『狭き門』のネタばれを含みます。)

 『”文学少女”と神に臨む作家』(野村美月著、ファミ通文庫)の下敷きになっている小説はジッドの『狭き門』だ。狭き門をくぐるかどうかは、遠子とななせ、叶子と結衣の争点となって、作品全体を貫いている。
 この『狭き門』とは具体的には何を指しているのだろうか。

 第一に考えられるのが、狭き門=「一緒にくぐれる人数が少ない門」という解釈だ。このことは、アリサが「神が示す道は狭く、二人ではとても歩けない」と書いていることから導ける。「作家とは狭き門をくぐるような職業だ」と言う言葉が示すのは、「小説を書く作業は孤独であり、作家は孤独に耐えなければならないのだ。」という意味だと考えられる。
 しかしながら、ここで疑問が生じる。本作には、『ぼくの作家』(結衣)と『みんなの作家』(叶子)という対立軸が存在する。普通に考えれば、『ぼくの作家』がくぐる門の幅は二人であるのに対し、『みんなの作家』がくぐるのは多数の読者の幅になる。ならば、より狭い門をくぐっているのは、『ぼくの作家』たる結衣になりそうなものだが、『みんなの作家』たる叶子こそが狭き門をくぐった作家として位置づけられている。何故だろうか。
 その答えとして私が考えたのは、解釈多様性だ。
 ある小説の読者が百人だと仮定する。その小説の解釈が一通りである時、作家は百人全ての読者と一緒に門をくぐることになる。その門は101人分の幅がある広い門だ。一方、その小説が千通りに解釈できる時、作者と同じ解釈をする読者は0.1人となる。解釈可能な数が無限大に近づけば近づくほど、作者がくぐる門の幅は1に漸近する。一人の読者と共感することを目的に書いている『ぼくの作家』がくぐる門の幅は2人分だ。ゆえに、極めて高い解釈多様性を持った作品を書く作家は、『ぼくの作家』より狭い門をくぐることになるのだ。
 作家の森博嗣氏は、「クリエータというのは「誤解されてなんぼのもん」である」と書いている。結果的に多くの読者が同じ門をくぐるとしても、作家としてはそれを求めない覚悟を持っているならば、作家の意識の中では『みんなの作家』は『ぼくの作家』より狭き門をくぐっているのだ、という解釈も可能だ。

 一方、門の幅にこだわらず、狭き門=「入るのが困難な門」と捉えることもできる。それが第二の解釈だ。その場合、叶子が結衣より狭き門をくぐったということがより容易に理解できる。幸せな家庭という普通の幸福を捨てる道が困難であることは確かだろう。
 この解釈の優れている点は、心葉の示した作家としての生き方の方が、叶子の生き方より、狭き門(=困難な生き方)だとも言える点だ。何故なら、全てを捨てて入るより、持って入る方がより困難だからだ。醜い現実だけの世界を描くより、醜い現実と美しい現実が入り混じった世界を描く方が、より複雑で、困難だからだ。

 本稿は閏氏との議論によって完成しました。感謝します。

追記:”文学少女”で興味を持って、『狭き門』(ジッド著、山内義雄訳、新潮文庫)を読んだ所、”文学少女”から想像していたものとはまるで違っていた。「力を尽して狭き門より入れ」という教えを実践したアリサを賛美する内容なのかと思っていたら、アリサはツンデレすぎて死んでしまった色々とやりすぎな人であり、「狭き門」を賞賛しているとは思えない。むしろ、逆で、「力を尽して狭き門より入れ」などという聖書の教えは非人間的であり、真に受けているとこんな悲劇に至りますよ、と言っているように見える。巻末の年譜には、ジッドの全著作がローマ法王庁によって禁書とされたとあるので、それほどうがった読み方ではないはずだ。
 作者は、作品から様々な解釈が可能であることを示すため、あえて普通ではない解釈を示したのかも知れない。



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