いわく言いがたくない結末――キャラクターズ感想
キャラクターズ(東浩紀、桜坂洋著、新潮2007年10月号)を読んだ。読丸さんが感想リンク集を作られているので、いくつか見て回ったのだが、業界人への赤裸々な批判に注目し、面白がっている人が多いようだ。私も「あの人は苦労人だから、とにかく勝ち馬の方向へ流れるのはしょうがない。」と桜坂氏が語る箇所など、文壇ゴシップものとして楽しんだ。また、評論として見ても、興味深い。特に、
・小説は「構造」「内容」「文体」の三要素から成っている。
・近代小説は構造と文体を「透明」にすることで読者が内容に焦点を合わせて読むことができるように作られている。
・構造では単線的な物語が簡単に採用できなくなり、文体ではキャラクターのデータベースによって透明性が確保できなくなった。
という一連の指摘は端的で、『動物化するポストモダン2』全体分くらいの満足度がある。(キャラクターズの評論的側面に関しては、後天性無気力症候群や萌え理論ブログの指摘が興味深い。)だが、ラストが文学としてはいただけないと思う。
文学は評論の言葉が届かない、いわく言いがたいものを書くべきだ。何故なら、評論の方が読者への情報の伝達効率が高いので、評論で書けることは評論で書くべきだからだ。例えば、『All You Need is Kill』の結末は、いわく言いがたいものを見事に表現している。あの情感を、「何かを得るためには何かを捨てねばならぬのだ。」なんていう評論の言葉でまとめることはできない。
キャラクターズの結末は図式化された構図から成り立っていて、いわく言いがたいものをほとんど含まない。だから私はあの結末を評価できない。
ならばどういう結末ならば良いかと問われると難しい。だが、例えば『東が朝日新聞の会議に殴りこみをかけると、編集委員が全員便器に座って会議をしていた。東はおずおずと空いていた便器に腰を下ろした。』という結末ならどうか。もちろんこれとてあまりよい結末とは思えないが、それでも現行の結末よりはまだいわく言いがたいものを含んでいるのではないか。
ただし、現行の結末は決断主義的だ。この背景には明らかに、東氏が、セカイ系を賞賛して時代が決断主義に移行していることに気づいていない旧体制だという宇野常寛氏の批判がある。もし東、桜坂両氏がこの批判に対し、決断主義の不毛さを示すためにこの結末を選択したのだとしたら、評論としては面白い試みだと言える。
全体的に、評論としては東氏の過去の仕事に匹敵する程面白いが、小説としては、桜坂氏の過去の作品には及ばない。そう考えると、桜坂氏に共作のメリットがないのではないか。もちろん、将来のための経験値を得るというメリットはあるのだろうが。
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