人間性が現れるゲーム――クラッシュ・オブ・クラン感想



 スマホゲームのクラッシュ・オブ・クラン(Supercell)をインストールした。チュートリアルに従って設備を設置し、村を作っていく。AIが防衛するゴブリンの村を攻撃して金貨を奪ったり小岩を除去したりいている内に三日が経った。久しぶりにアプリを起動した私は愕然とした。私がいない内に村が他のプレイヤーに襲撃を受けたというのだ。

 確かに、このゲームには他のプレイヤーの村を襲撃し金品を奪う機能があるのは知っていた。だが、それは機能として存在するだけであり、良識ある紳士淑女はそんな野盗まがいのことはしないだろうと思い込んでいたのだ。
 私は、まあたまにはそういう非常識な人もいるだろうと思い、アプリを閉じた。ところが翌日も村は襲撃を受け、今度はあらゆる金品が根こそぎ奪われてしまった。そこで初めてこのゲームではプレイヤー同士の襲撃が日常茶飯事であることを知ったのだった。
 何て野蛮なゲームだ!

 「パズル&ドラゴンズ」や「モンスターストライク」など日本製のゲームでは、プレイヤー同士は協力はしても互いに争うことはない。「魔法使いと黒猫のウィズ」の魔道杯ではプレイヤー同士が競うが、勝者が敗者から何かを奪うわけではない。穏やかな日本製ゲームに慣れきっていた私にとって、クラッシュ・オブ・クランのようなゲームが成立し得るというのは盲点になっていた。

 この件で私が学んだことは二つある。一つは、実感を伴っていない知識は役に立たないということ。もう一つは人の行動は条件によって規定されるということだ。
 クラッシュ・オブ・クランは運営によってプレイヤーが他のプレイヤーの村を襲撃するよう誘導されている。
 このゲームでは、ゴールドとエリクサーを生産し、村の設備を増強したり、他の村を襲撃したりする。ゴールドは色んな設備の増強に使えるのに対し、エリクサーは襲撃以外にはあまり役に立たないのだ。(ゴールド生産の増強には使えるが。)結果的に、エリクサーが余ったプレイヤーは襲撃でもするか、と考えがちだ。さらに、襲撃側は襲撃に失敗してもたいていいくばくかのゴールドとエリクサーを得るのに対し、防御側はわずかなエリクサーを得られるだけであり、襲撃の方が得なのだ。その結果として多くの人が襲撃しまくっていることを考えると、人間の自由意志も多くが他者のコントロール下にあるのではないかと思わざるを得ない。

 クラッシュ・オブ・クランが良くできているのは、襲撃側が有利ではあるものの、襲撃で村が壊滅した際にシールドが張られるというルールを導入したことで、防御中心プレイも可能にしていることだ。私は生産設備を増強し、大砲と塀をがんがん増強してがちがちに守りを固めているが、守りはほったらかしで攻撃陣をがんがん強化し、必要なゴールドは襲撃で調達するという戦略も可能だ。クラッシュ・オブ・クランの村を見れば、プレイヤーがどういう人間か、内向的か外交的か一目で分かるのではないだろうか。

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東雲製作所評論部(感想過去ログ)