コードギアス 反逆のルルーシュ感想



 フィクションにおいて、作者は何をやっても自由なわけではなく、様々な制約を受けている。その制約には、作中でスポンサーのピザを出さなくてはならないとか、プロデューサーが納得するような世界観でなくてはならないとか、放送コードとか、テレビアニメなら二十五分ぴったりに収めねばならないといった外部的な要因の他に、内部的なものもある。受け手が面白いと思うようなものを作らねばならないというのが商業作品における最低限のルールだろう。
 作品を成立させる重要なルールの一つに、登場人物の性格と行動が一貫している、というものがある。もちろん、途中で善人がダークサイドに落ちたり(性格が変化)、あるいは虫も殺さぬような態度の人が実は殺人犯だったり(行動が変化)ということはあるが、その場合も、後から性格や行動が変化した理由が説明されないと、読者は納得しない。また、性格や行動が変化してもその人物の本質は変わらないのが普通だ。もちろん人の本質を単純な言葉で定義することはできず、状況によってゆらぎが生じるだろうが、直感的に理解することはできる。このキャラはこんなことはしないよ、という風に。

(以下ぼかしてはいるがネタばれ)
 TVアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』の主人公、ルルーシュが持つ絶対遵守の力「ギアス」はフィクションにおけるこの法則を捻じ曲げることができる。23話以降の展開は22話におけるユーフェミアの行動のような起爆剤が必要不可欠であるが、ユーフェミアは本質的にああいう行動をするキャラではない。もちろん、ユーフェミアをあらかじめそういう行動をするようなキャラクターにしておけば、同様の展開になるだろうが(この案を「アレ版ユフィ」と呼ぼう)、その場合、ユーフェミアが通常の判断力を持っていれば、自分の行動が当然23話以降のような展開を招くことが予想できるから、ユーフェミアをアレな性格な上に馬鹿なキャラクターに設定しなくてはならない。ものの本によるとキャラクターの愚かな行為が必要不可欠であるプロットのことを「愚者のプロット」と呼び、駄目なプロットの典型とされるが、アレ版ユフィによるプロットはまさに愚者のプロットである。「ギアス」の力は主人公ルルーシュに強大な力を与えたが、実は「ギアス」の設定は脚本家や監督に強大な自由度を与えているのだ。

 もっと具体的な感想も書いておこう。私は「命を惜しむな名を惜しめ」みたいな考えが全く理解できず、本人が認識できない死後の名声なんてどうでも良いと思っていたのだが、本作でのあの展開は命より名を傷つけたことの方がよりむごいことであるように感じた。この命題に関する考えはまだまとまっていない。



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