休耕田の開拓者――カーリー感想



 小説とは本来何を書いてもよいはずである。だが、現代の小説は様々な制約に縛られている。そのことは、制約を破った小説を読むことで初めて自覚できる。例えば、佐藤哲也氏の『熱帯』を読むと、ホメロスのような神の意思でストーリーと無関係なことが起こるような小説が禁じられていることが分かるし、福永信氏の『コップとコッペパンとペン』を読むと、場面展開には作法があって、唐突に小説内の時間が進んではいけないことが分かる。このような禁止事項は、小説をより洗練された、面白いものにするため、先人の試行錯誤から創り出されたものだ。だが、反面、小説を窮屈な場所に押し込める結果になっていないか。畑の同じ場所で同じ作物を作り続けると、連作障害が起こる。今の小説は、連作障害を起こしかけているのではないか。
 『カーリー〜黄金の尖塔の国とあひると小公女〜』(高殿円著、ファミ通文庫)は現代小説の主流とは全く違う場所で勝負している。舞台はヴィクトリア王朝時代のインド。ストーリーも運命の少女カーリーとの恋を軸にインド独立運動や世界大戦をからめてダイナミックに展開する。これは現代を舞台に個人の内面を書くことが多い現代小説とは明らかに異なっている。むしろ、『嵐が丘』のような近代小説に近い。(と、言いつつ嵐が丘は読んでいないが。)高殿氏のやっていることは、休耕田に鍬を入れるようなことなのだ。
 こういういわゆる「本格小説」がすたれたのは、建前上は現代人の内面を書こうとすると、大掛かりで劇的な設定と齟齬を生じるからなのだろうが、実際のところは大掛かりで劇的な舞台を用意するのがすごく大変だからではないか。本作もビクトリア朝インドのことを細かく調べてあって、すごい労力がかかっている。だが、いくら大変でもこうした仕事は誰かがやらねばならんのだ。連作障害を避けるために。だってこんなに面白いんだから。
 『カーリー』は単にはらはらどきどきリリカルなストーリーが面白いだけでなく、小説界全体のためにも意義深い作品なのだ。



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