カーリー〜二十一発の祝砲とプリンセスの休日〜 感想
『小説の誕生』において保坂和志さんは「小説にはどうして人間が出てくるのか?」「近代に入って、絵も彫刻も人間を題材とするものから離れて、ずっと抽象的なものになっていったのに、どうして小説にはいまだにしっかりと人間が登場しつづけるのか?」という問いを発していて、確かに不思議なのだが、一つ思ったのは、小説というのが、読者の記憶に依存したメディアだということだ。絵や彫刻や音楽は、受け手が見たことも聞いたこともないものをぽんと提示しても作品として成立するが、小説はそうはいかない。「それは未だかって誰も見たこともないような奇怪なオブジェであった」というように書いたとしても、それは読者の記憶にある前衛芸術のイメージを借りて読者に伝達しているのであって、読者の経験の組み合わせや敷衍なしには伝達不可能だ。もし、何としても読者の記憶を用いないぞ、と思うのであれば、造語を使って「それはビッヒーナトリテな佇まいにしてリュランゲドであり、何よりみひりんぺんであったのだ。」とでも言うしかないが、それでは読者に伝わらない。(音の面白さだけで勝負するタイプの詩ならば、読者の記憶に依存しない作品も可能かもしれない)
つまり、「小説にはどうして人間が出てくるのか?」という問いに対して、読者の記憶の共通基盤としての人間が小説には必要だから、という仮説が提唱できるわけだが、何故くだくだと述べていたかと言うと、『カーリー〜二十一発の祝砲とプリンセスの休日〜』(高殿円、ファミ通文庫)は読者の記憶というものを絶妙に用いた小説だからだ。以下にその技を分析しよう。
記憶の利用その1 物語の記憶の活用
作者はあとがきで
「やっぱ小公女セーラときたら、次はローマの休日でないとだめなんですよ。
古今東西、王女様ときたら、脱走しないとだめなんですよ!
転校生ときたら、騒動の元でないとだめなんですよ!!」
と書いているが、確かにカーリーは既視感のあるこてこてなストーリーの組み合わせから成っている。そのこてこてさが、読者になつかしさのような居心地の良さを与え、いつまでも読んでいたい、と思わせる一因となっている。
記憶の利用その2 インドのことなど知らん
知っていることが安心感を与える一方、知らないことは好奇心を与えてくれる。作者は読者が植民地時代のインドのことなどほとんど知らないことを良く分かっており、上手くストーリーと絡めながら背景の説明を織り込むことで、読者の知的好奇心も満たされるよう計らっている。
記憶の利用その3 体験の記憶が一番強い
これが一番言いたかったことだ。読者の多くが体験しているような普遍的なことを、その体験が呼び起こされるように描けば、読者の心の揺れ幅は通常の二倍となる。今回は、ある体験に付随する歌が極めて効果的に使われていて、思い出しただけで涙が出そうだ。同様の例としては、”ドラえもん”を効果的に使った『F先生のポケット』(乙一著、ファウスト掲載)が思い浮かぶが、こういう「感動を伴う共通認識に付随するもの」は読者の体験がバラけてきた現代ではとても少ないので、見つけるのは大変だ。
結局のところ、エンターテイメント小説は、読者の反応をどこまで読み切れるかの勝負という側面が大きい。そういう意味で、高殿さんはつくづくプロだなあと思うのだ。
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