三十四にして大人になどなれないと知る――ファミリーポートレイト感想




 (本稿は『ファミリーポートレイト』の結末に触れています。ご注意下さい。)
 桜庭一樹氏待望の新作『ファミリーポートレイト』(講談社)は煮え切らない、どんよりとした話だ。それは『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』と比較するとはっきりする。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のヒロインなぎさは小説の最後できっぱりと大人になるが、『ファミリーポートレイト』のヒロイン、コマコはいつまでも大人になることができない。

 「移行対象」という概念がある。『キャラクターメーカー』(大塚英志著、アスキー新書)によると、移行対象とは「幼児が母親から分離していく過程で、母、あるいはもっと直接的には「乳房」の代わりとして求められるもの」であり、「精神的な意味で、「大人になりきれない」人たち」が「現実に移行するためのアイテム」と定義される。そして、「「移行対象」のキャラクターの特徴は、パトリシアのテディ・ベアやライナスの毛布がそうであるようにただ、そこに「居る」もしくは「在る」だけの存在」だ。

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の場合、ヒロイン山田なぎさの移行対象は同級生の海野藻屑だ。
『ファミリーポートレイト』のコマコの場合、一見、移行対象は母のマコであるかのようだ。だが、移行対象とは「母の代わりとして求められるもの」なのだから、母そのものであるマコは移行対象にはなり得ない。コマコの移行対象は小説だ。コマコの幼少時からずっと側によりそって心の支えになっていたものこそ、小説に他ならない。
 人は大人になるためには、移行対象と別れねばならない。なぎさは藻屑を失うことで、大人になる。ストーリーはシンプルだ。一方のコマコも、二十七歳の時に小説を捨てようとする。しかし結局は捨てられず、小説の世界に戻ってしまう。だから、コマコはいつまでも大人になれない。そして、三十三の時、自分だけではなく、今や誰もが大人になどなれないのだということを知る。

 コマコの辿った「1)大人になんかなりたくない→2)大人にならなくてはいけない→3)大人になどなれない」という変遷が私には良く分かる。正確には半分だけ良く分かる。というのも、私自身、数年前まで「大人になんかなりたくない」と思っていたのが、三十歳になって「大人にならなくてはいけない」と思うようになったからだ。

 桜庭氏が何歳なのか分からないが、本書はコマコが三十四歳になった所で終わっているから、桜庭氏もおそらく三十四歳なのだろう。だとすると、氏は2004年、つまり三十歳の時に『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』で、「大人にならなくてはいけない」というメッセージを発し、三十四歳で「大人になどなれない」という小説を書いたことになる。注)

 どうも三十四歳くらいで大人になどなれないと悟るのは、桜庭氏に固有のことではないらしい。と言うのも、『世界の電波男 喪男の文学史』(本田透著、三才ブックス)にこんな記述があるからだ。
「フィレンツェから追放されたダンテ、時に36歳。喪男がブチ切れてモッグ・バンを起こす年代は、だいたい、30歳過ぎから35歳前後と相場が決まっている。どうも、この年代が「我慢の限界」というか「喪エネルギーの臨界点突破」を起こしやすいようなのだ。
 ブッダが悟りを開いて三次元から解脱してしまったのも35歳頃と言われているし。イエスも30歳ぐらいで布教を開始したと言われている。」

 本書で描かれるコマコの体験は数奇なものだが、コマコが最後にたどり着いたのは、特にフィクションの呪縛に捕らわれた者にとっては、誰もが見据えねばならぬ風景だ。


注)余談だが、桜庭氏との間に微妙な年の差があるせいで、私は『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだ時は、「大人になんかならなくたって良いやい!」と憤慨し、(憤慨ついでに桜坂氏を応援する評論を書いたり、「俺は砂糖菓子の弾丸で撃ちぬかないぞ」というテーマの小説まで書いた程だ)、『ファミリーポートレイト』を読んだ時は、「結局は大人になどなれないのか」と愕然とするはめになった。



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