ファウストvol.5 感想





 今号は何と840頁もある。片手で保持出来なくなるので、そろそろ頁を増やすのを止めてほしいところだ。
 巻頭特集は「上遠野浩平をめぐる冒険」上遠野さんの小説「アウトランドスの戀」と「ポルシェ式ヤークト・ティーガー」が掲載されているのだが、注目したいのは、「アウトランドスの戀」の題名。アウトランドスとは「僻地、遠隔の地、異国の意」だそうなので、桜庭一樹さんの「荒野の恋」とほとんど同じ題名である。しかしながら、「アウトランドスの戀」における恋は荒野における唯一の光明なのに対し、「荒野の恋」では恋が荒野であり、恋の位置付けがまるで逆な所が面白い。それは、主人公が荒野にいるかいないかという設定の違いから導かれているのだが、作者の恋愛観の違いとも考えられる。
 このようなシンクロはファウストの中でも見られるわけで、例えば、舞城王太郎さんのコミック「BRANDNEW ME,BRANDNEW WORLD」は最初ピンとこなかったのだが、元長柾木さんの評論「パブリック・エネミー・ナンバーワン」を読んだ後だと、何が言いたいのかよく分かる。この評論は、「筆者が清涼院と上遠野にセカイ系(あるいは現代文芸)を代表させようとするのは、彼らが「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つのセカイ系の根幹概念をそれぞれ代表するからである。」という一文に要約されるのだが、「BRANDNEW ME,BRANDNEW WORLD」は後者の戦いをベタに描いたものとして読める。元長さんの評論は、私の中でばらばらに存在していたライトノベル関連の問題をすぱすぱと繋いで見せてくれ、すっきりした。ただ、上遠野さんは、成長の拒絶を(それこそ「シスタープリンセス」のようには)肯定していないと思う。「ブギーポップ・イン・ザ・ミラー パンドラ」では、いつまでも変わってほしくない仲間達の物語だが、描かれているのは、いつまでも変わらない仲間などありえないという事実だ。上遠野さんの小説は非常に断片的なため、登場人物が成長する所はほとんど描かれないのだが、成長する意志は書かれていると思う。(例えば織機綺は成長しているように見える。)
 もう一つのシンクロとして、「子供と大人の関係」というテーマも指摘できる。佐藤友哉さんの三部作「vsナインストーリーズ」では、サリンジャー同様、全く子供と同レベルの対話をする大人が登場し、おかしいのだが、これは「成長の拒絶」とも読みかえられる。しかしそうするとまてよ、金原瑞人さんの『大人になれないまま成熟するために』によるとサリンジャーはアメリカヤングアダルトの源流とのことなので、ヤングアダルト小説は元来成長を拒絶したものだったといことになり、元長さんの「成長する=ヤングアダルト」「成長しない=ライトノベル」という定義付けはあやしくなるわけだが、それはそれとして。「新本格魔法少女りすか」の主人公、供犠創貴は自分が子供であることに苛立っており、子供を大人の下に位置付けられることを極端に嫌っている。子供なのに大人と対等でありたいと思っているということと、大人なのに子供のままでいたいと思っていることは表裏一体だ。
 他にも、竜騎士07×渡辺浩弐対談などの、危機感を煽る言説が気になった。東浩紀さんも指摘されていたのだが、「他人は信用できない」「安全神話は崩壊した」といった意識を多くの人が共有すると、集団は閉鎖的、不寛容になりがちであり、私は好きではない。

 個別にへえと思ったのは、竜騎士07さんの「本当は、頭のなかにある四次元空間をそのまま作品にしたいんです。でも四次元空間のままでは他人に見えないままだから、三次元にして、脚色、演出をする必要がある。」という発言。森博嗣さんも似たようなことをおっしゃっていましたが、私の場合、小説を書いているとき、頭の中には文字情報しかありません。三次元どころか映像すらなし。すごい違いだなあ。
 実際、みなさんは小説を(読んでいる時or書いている時)頭の中で映像に変換しているのでしょうか。心有る方は匿名で良いので掲示板に「する」か「しない」か書き込んで下さいませ。

「東雲閑散掲示板」



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