正反合による決断主義の克服――学校の階段7感想
『ゼロ年代の想像力』について書いたばかりだが、また取り上げる。それだけ、フィクションについて考える取っ掛かりとして優れた評論であると言えよう。
『ゼロ年代の想像力』で、著者の宇野氏は、繰り返し、あらゆる主張が決断主義であり、リベラルもまた決断主義であると主張している。その例として、宇野氏はリベラル派が「つくる会」の教科書を退けたら代わりにリベラル派の主張の押し付けである教科書になるだけだと指摘している。
決断主義にも程度があり、ばりばりの決断主義もちょっとだけ決断主義なのも一緒くたにしてしまうのは乱暴ではないか、出来るだけ決断主義度を低くするようなスタンスを取るべく努力すべきなのではないか、と思いつつ、根本的な反論は思いつけないでいた。
そんな時、『学校の階段7』(櫂末高彰著、ファミ通文庫)を読んだ。そこにはまさに宇野氏の命題及びその克服が描かれていた。
(以下『学校の階段7』の結末をあからさまにばらしているので、未読の方は読まないで下さい。)
本作は神庭幸宏と御神楽あやめが生徒会長を選挙で争う小説である。神庭の主張はリベラルであるのに対し、御神楽の主張は新保守主義的である。二人は激しい討論を交わす。だが、それは不毛な決断主義的闘争ではない。神庭は御神楽による厳しい追及を受けながら、ぐんぐん成長する。御神楽は神庭のことを倒すべき敵としか思っていない。だが、神庭は御神楽の優秀さを認め、学ぼうとする。その差が最後に勝負を分ける。
しかしながら、単に御神楽の主張を退け、神庭の主張を生徒会長として実現するだけなら、決断主義に過ぎない。だが、神庭は御神楽に副会長についてくれるよう頼む。三段論法で言う所の「正(神庭)、反(御神楽)、合(両者による生徒会)」である。神庭は反対派を取り込むことで、見事に決断主義を克服したのだ。
教科書の例で言えば、現実はリベラル派の思い通りの教科書にはなっていない。大半の学校では、「つくる会」、リベラル派双方にとって不満な内容の歴史教科書が採択されている。両陣営とも、神庭のように敵から学ぶ気がないので、闘争そのものはあまり建設的ではなかったかも知れない。だが、結果的には正反合によって決断主義が克服されている。世の中上手く出来ている。
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