現代小説のレッスン 感想





 『現代小説のレッスン』(石川忠司 講談社現代新書)は現代純文学全体を網羅しているにも関わらず、見事に体系的で分かりやすい。石川氏の主張は、プロローグに全て書いてある。まとめると、物語が近代小説に変わる際に、脱落してしまった豊かな属性(語り手のイントネーションや声質等)を埋め合わせるために、小説は「内言/内省」「思弁的考察(感想)」「描写」の三技法を生み出したが、これらはストーリーとは関係無く増殖し、しばしば小説をかったるくしてしまっている。本書で解説する純文学の「エンタテイメント化」とは、物語の豊かさを目指しつつ、「内言」のたぐいを果敢に「排除」もしくは馴致・「抑圧」することで活字に踏みとどまろうとする試みである、というものだ。
 この基本認識を元に、「内言」「思弁的考察」「描写」のエンタテイメント化に成功した例を各章毎に解説していく展開は明快かつ多くの示唆を含んでおり、取り上げられた以外に多くの小説を想起した。
 例えば、
「およそ主張や意見のたぐいはそれを口にする人間が世間で辛酸を舐めるとか、いろいろ右往左往したすえに身銭を切って背負わされ、個人的にグズグズ発酵した複雑な情念をともなっているとき、たとえ「間違って」いたり「レベルが低」かったりしても、確かに万民が傾聴するにたる何物かがその中に宿る。」
という主張には、『電波男』を思い出して深く肯いたし、
「小説においては、主張がいかに素晴らしく正しくとも、そんな主張それ自体よりも主人公がそこにいたる困難に満ちた現実的なプロセス=経験の方がはるかに重要で、その手の経験だけが当の主張にはじめて躍動的なソウルを付与できるのである。」
という説には『十二国記』を想起した。また、
「一介の生身の人間以上でも以下でもない小説家が、物語の展開を自らの身体性の十全な延長において、リアルに把握しかつきめ細かくコントロールできるのはまさに小「藩」的な時空間がギリギリの限界なのではないだろうか。(中略)さて、これが「藩」を越え、あるかう時空間を人口の多い国民規模、世界規模の世界にまで拡大するとどうなるか。そこではもはや直線的な「因果」は影を潜め、替わって極めて散文的かつ確率的な「統計」の原理が支配し、したがって姑息な誤魔化し抜きではとてもまともなドラマなど成り立たないであろう。」
という基準は、ライトノベルの殆どが合格である。『ショットガン刑事』が『百年の孤独』と同じ方法論に立っていたとは目から鱗だ。

 本書で最も唸ったのは二章の『保坂和志の描く共同性と「ロープ」』だ。今、私は『フタコイ オルタナティブ』や『あずまんが大王』といった一連の「大切な仲間といつまでも一緒にいたい」という気持ちを描いた作品群についてうんうんと考えているので、
「「深い」コミュニケーションとは端的に物質的「共同作業」が持続し長引いた状態を指すわけで、つまりコミュニケーションにとっては理解や交歓よりも何よりも、その当事者たちがなるべく長時間、ただいっしょににいるということの方がはるかに大切なのだ。」
という指摘はまさにピンポイントだった。

 本書にはしばしば
「結局それは端的に、「僕は世間に対し顔を背けているんだけど、世間の側はなぜか「僕」を熱く見つめている」という、なかなか香ばしくも非対称な(=自分勝手な?)かたちを成すのである。」
みたいな、誉めてるんだか貶してるんだか分からない記述が見られるが、文字通り誉めても貶してもいないと読むべきだろう。何故なら、石川氏は現代小説を客観的な論理で読み解こうとしており、誉めたり貶したりするのは、根本的には主観的な好みに拠っているからだ。



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