群像2006年5月号 感想



 桜庭一樹さんが遂に純文学誌に進出! したのに全然話題になっていない群像5月号の巻頭特集は新人15人短編競作。私は純文学=未踏峰だと思っているので、フォークナーの真似をしてるやつよりは撲殺天使ドクロちゃんの方がどちらかというと純文学的だと思うのだが、文壇的にはどうも違うらしい。そこで、この15作から、純文学とはどういうものか傾向を探ってみた。
1下流
登場人物は皆下流かせいぜい人並みで、金持ちは登場しない。バリバリ仕事をしている人も出てこない。つげ義春の漫画に出て来そうな人が多い。
2下半身
登場人物はしばしばセックスをしている。また、『ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ』をはじめ、ウンコに関する小説も多い。セックスはともかくウンコに関するエンターテイメント小説はほとんどないので、通常の百倍以上のウンコ率と言えよう。

以上のことから、パッとしない登場人物がセックスをしたりウンコをしたりすると純文学っぽいと判明した。
 モチーフはともかく、いわく言い難い領域に踏み込んでいるのが純文学なのかなとは思った。そういう意味で、純文学とは何かと定義できないところが純文学の純文学たるゆえんと言えよう。

 全体的に、長編とは文章密度が違うので、粒ぞろいに感じたのだが、あえて一つ挙げるなら『まわるもの』(中山智幸)が不毛感が出ていて面白かった。『離婚』(山田茂)も不条理で好きだが、これって純文学というよりショートショートでは。『石性感情』(高原英理)は少女小説っぽいところが好きだ。逆に『このたびはとんだことで』(桜庭一樹)は純文学を意識しすぎて普段より窮屈な感じだ。つまるところ私は純文学っぽくない方が好きなのか?

 巻末の創作合評はとても贅沢な面子で、取り上げられている作品を読んでから読めばすごく勉強になりそうだ。(読まずに読んでも結構勉強になった。)



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