会話で認識を稀釈せよ――虐殺器官感想




(本稿は『虐殺器官』の抽象的なネタばれを含みます。)
 『虐殺器官』(伊藤計劃著、ハヤカワ文庫)を買う際に、店員さんが、ぼそっと「これは面白いよ。」とつぶやいた。そんなことは初めてだったので驚いた。
 本書の白眉はインド編のクライマックスだ。感情を封じられた一人称による戦場描写が作り出す異様な世界に鳥肌が立つ。こんな文章見たことない。
  「狂人とは理性を失った人間のことではない、 理性以外のあらゆるものを失った人間のことである」 という言葉がある。『虐殺器官』で描き出される狂気はこの言葉にぴったりだ。だが、何が理性で何が感情なのかを厳密に区別することは難しい。もっと別の定義があるのではないか。
 文庫版316頁からの描写で主人公クラヴィスは明快な認識をする。思うに、自我によって完全にコントロールされた認識そのものが、狂気を生む毒なのではないだろうか。クラヴィスは二頁後にリーランドと会話を始めるが、途端に世界の異様さが大幅に稀釈される。
 他者の介在しない認識を行っている限り、認識主体は全能だ。客観的に見れば筋が通っていなかったり悲惨だったりしても、本人が最高だと思っている限り、その認識は妨げられない。
 だが、会話では、認識に予期せぬノイズが混入する。もちろん、会話もまた認識であるから、自分に都合の良い解釈によって捻じ曲げることも可能だ。だが、相手が言った言葉そのものは変えられない。自分のものではない言葉は自我の支配下にある認識に異物を混入し、稀釈する。
 物語の結末で、クラヴィスはある決断を下す。だが、もしその時隣にウイリアムズが居て、くだらないことを話していたら、そんなことはしなかっただろう。
 純粋な認識は危険だ。我々はそれを会話で薄める必要がある。



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