犯罪から過剰な意味を読み取るべきではない




 東浩紀氏が朝日新聞2008年6月12日朝刊に秋葉原無差別殺傷事件について論評を出している。氏は「容疑者はむろん厳罰に処すべき」であり、容疑者は「いかにも幼稚だった」が、「しかしその幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない。」から、テロが生み出される背景について真剣に考えねばならないと主張する。

 私も派遣労働者が低賃金で酷使されている問題については、早急に改善すべきだと思う。だが、それと、今回の事件をからめて論じるべきではない。その理由は二つある。

 一つは、無差別殺傷事件の容疑者が、日本に多数存在する派遣労働者の内のたった一つの例でしかないからだ。容疑者が別の職業、例えば大学教授だったとしたら、大学教授の処遇を改善すべきだ、といった議論にはならないだろう。もし、容疑者の怒りに耳を傾けるのなら、日本全国の全ての派遣労働者一人一人にも同じだけ耳を傾けねばならないはずだがそんなことは不可能だ。

 もう一つは容疑者の怒りに耳を傾けることで、第二の犯罪を誘発してしまう恐れがあるからだ。もし、多くの人が容疑者の主張に耳を傾け、容疑者が望む通りに社会を変えたりすれば、「俺は死刑になっても良いから、何とか俺が思う通りの社会になって欲しい。」と考える、第二、第三のテロリストの背中を押してしまうことになる。それは断じて避けるべきだ。森博嗣氏が、「無差別殺人に対する防御」 で、犯罪について報道を制限することが必要だと主張していたが、同感だ。派遣労働者の問題を改善するにしても、今回の事件のことには触れずに進めるべきだ。

 評論家は、しばしば、一つの事例から、社会全体を論じようとする。それが、例えば、あるテレビドラマが大ヒットした、というようなことなら、日本人の数人に一人が関わっていることだから、ある程度普遍化が可能だ。だが、今回のような事件の場合、たった一人の事例にすぎない。評論家は事件から過剰な意味を読み取るべきではない。それが、ワンオブゼムであることに耐えている大多数に対する誠実な態度ではないだろうか。



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