漸近する動き――涼宮ハルヒの憂鬱感想



 「涼宮ハルヒの憂鬱」(アニメ版)のすごい所のは色々あるが、最も感嘆したのはそのリアリティーだ。
 「朝比奈ミクルの冒険」における自主映画テイストの忠実な再現に始まり、「ライブアライブ」でのハルヒ熱唱シーンなど、普通のアニメと比べ、圧倒的にリアルな表現は多い。特に、「サムデイインザレイン」での音は秀逸だった。吹奏楽部や運動部などのノイズが遠く聞こえてくる様によって、私は一気に学生時代へと引き戻され、涙が出そうになった。

 しかし、単にリアリティを上げたいのなら、実写にすれば良いはずである。だが、実際は実写ではこの種の感動は味わったことがない。何故か。
 まず考えられるのは、アニメであることで、異化されているということだ。日常で目にしているのとは違うアニメ絵で提示されることで、ささいなことでも見慣れない特別なものとして感じられるという効果だ。
 また、アニメは全て作り手の意思によって作られているという事情もある。実写と違い、アニメは全ての描写が何らかの目的をもってなされている。それゆえに、見る側もささやかなことでも意味があると思って見るから意味を感じ取りやすいと言える。象徴的なのが第一話だ。あれを実写でやったら、単なるへたな自主制作映画だが、わざわざ手間をかけてアニメでやることにより、メタ化され、批評性が生じているのだ。
 だが、つらつら考えるに、最も大きな要素は、アニメ的リアルから自然主義的リアルに漸近する動きにあるのではないか。アニメではどんなに頑張っても自然主義的リアリズムを完全に体現することはできない。であるが故に、アニメ製作者が自然主義的リアルに近づけようとする行為は果て無き挑戦であり、その意思に私は感動したのではないか。

 そうだとすると、この感動は物語自体によるのではなく、メタな感動だと言える。「涼宮ハルヒの憂鬱」放映開始当初は、「ストーリーが分からず、原作未読者をないがしろにしている」と批判する人が何人もいた。しかし、放映後に原作がバカ売れしたことを考えると、多くの視聴者は「ストーリーは訳分からんが演出とかが面白い」と捉えて支持したと推測できる。
 「涼宮ハルヒの憂鬱」の成功はメタな視点と無関係ではいられない現代のおたくの状況を象徴している。



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