ハイタッチ猫をめぐる考察




 らばQ経由でハイタッチを繰り返す猫の映像を見て、不思議な気分になった。頭の中がにゃごにゃごしてくるような変な感じだ。「なにこれ遊んでるの?ケンカの手前?」というコメントがあったが、確かに、彼らの行為は、意味づけがはっきりしない。そのことについてつらつら考える内に、気づいたのが、複数の人間同士は、意味づけのはっきりしない行為はしないということだ。
 例えば、この動画を見て、自分もやってみたくなった人が、知人に、「手をグーにして、相手との間合いを計りながら、ハイタッチを繰り返そうぜ。」と提案したならば、「よし、やろうぜ。」とはならない。「何で? 」と聞かれることだろう。その後、「こういう動画があって、自分でもやったら楽しいかと思って。」といった説明がなされた後に、初めて、「じゃあやってみよう。」となる。奇妙なハイタッチに、「動画の再現」という意味づけがなされて、初めて、人は行動に移すのだ。
 普通のハイタッチは、うれしい時に、(意味づけを経ずして)とっさに交わされるではないか、と反論をする人がいるかも知れない。だが、その場合も、「ハイタッチは喜びを表す」という意味づけが常識という形で事前になされている。もし、葬式でハイタッチをしてもらおうと思ったら、「俺は悲しいときに悲しみを振り払うためにハイタッチをすることを提唱しているのだ。」などという説明を必要とするだろう。
 人間でも、幼児が相手なら、説明なしにハイタッチを繰り返す遊びが成立するかもしれない。人間の大人は意味に囚われている。何と不自由なことだろう!



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