伝えるか伝えないか、それが問題だ。――人は見た目が9割感想




 数年前のベストセラー『人は見た目が9割』(竹内一郎著、新潮新書)を今頃読んだ。タイトルから、「しょせん不細工はイケメンには敵わないのだよ。」という内容なのかと思ったら、「非言語コミュニケーションが重要だ」という内容で、それなら同意できる。全体的にちゃんとしたデータに基づかない印象論が多い(例えば、タイトルの根拠となっている、マレービアン博士の実験にしても、どういう実験をしたのか引用していないため、どの程度信用できるのか分からない)が、本書に限ってはそれが正しい。「人は印象で判断している。」と主張しているにも関わらず、当の作者が印象で判断せずに、論理的考察に基づいて執筆したら、みすみす反例を提供することになって、説得力が薄れるではないか。

 基本的に私は言葉重視派なので、耳が痛い指摘が多かった。また、小説に何が出来るかを考えさせられた。フィクションにおいて、視覚・聴覚的表現の占めるウェイトは大きく、小説は、映画やマンガに比べて不利であると実感させられた。特に、筆者の専門のマンガのテクニックを解説した「マンガの伝達力」の章は学ぶ所が多かった。左上に見せゴマ、左下に引きゴマを置くというようなテクニックを意識している小説家がいるだろうか。マンガは小説に比べ、視覚的に訴えられるという優位性を持っている上に、読者へいかに正確に作者の意図を伝達するかというテクニックを高度に発達させている。小説が売り上げで敵わないのも無理は無い。

 いかに読者へ伝達するかとう点で、本書に学ぶべきことは多い。だが、逆に、そこが本書の弱点でもある。本書には、いかに読者に伝えないかという視点が欠けている。
 『未来形の読書術』(石原千秋著、ちくまプリマー新書)では、「誰が読んでも同じ読み方しかできない」ことは「小説にとって死を意味する」ので、「小説家は自分の言いたいことを書くために小説を書くのではない。自分のもっとも言いたいことを隠すために書くのだ。」と主張している。
 『人は見た目が9割』でも日本人の語らぬ文化について論じる下りがあるが、語らぬことで伝えることの意義を指摘するのみで、語らぬことで伝えないことの意義に関する視点が欠けている。そして、そこに伝達力でマンガなどに劣る、小説の優位性が存在する。

 本書で最も興味深く読んだのが、以下の指摘だ。
「男は嘘をついた時、目をそらす。やましい気持ちが目に表れる。
ところが女が嘘をついた時は、相手をじっと見つめて取り繕うとする。
つまり女がじっと見つめた時は本来怪しいのだが、これはいまだに「世の一般法則」にはなっていない。だから、演技術としても使えない。仕方なく、演出家は、女がやましい時も「目を外す」演技をつけることになる。」
 ここで、女が目を外す描写をして、読者に正しく作者の意図を伝えるか、相手をじっと見つめる描写をして、読者の読みに委ねるか。創作者は岐路に立たされている。



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