犬は何か――犬はどこだ 感想
『犬はどこだ』(米澤穂信著、創元推理文庫)は実に評論の書き甲斐のある小説だ。表面的ストーリーだけでも十分面白いが、象徴的意味を方々に仕込んでいて、「さあ、解釈してくれ! 」と言わんばかりだ。という訳で、タイトルにもなっている「犬」を軸に解釈をする。(以下ネタばれ)
主人公の紺屋は犬探しを仕事にしたがっている。ここでの犬は、桜庭一樹氏が「砂糖菓子の弾丸」と呼び、大塚英志氏が「ライナスの毛布」と呼んだもの、即ち現実逃避対象であるように見える。後に紺屋は犬探しのことを「運命論」あるいは「必然、といって悪ければ、それは必要だったのだ。別の言い方をすれば仕事の一環だ。」と表現しており、この見立てが当たらずとも遠からずだったことが分かる。
しかし、犬は別の象徴でもある。紺屋は犬探しで野犬と対峙する。この時の野犬は「理不尽な暴力」の象徴だ。野犬と対決した後、紺屋は徐々に運命論から反運命論へと変化する。
犬が登場するのは「犬探し」「野犬」の二つかと思っていると、第三の犬が登場する。「番犬」だ。番犬は「理不尽な暴力へ抗う手段」の象徴だ。しかし、野犬と番犬は見方を変えれば共に犬でしかない。「理不尽な暴力」がしばしば「理不尽な暴力へ抗う手段」として振るわれるのは本作が描く通りだ。両者の違いはどちらが弱者かという違いでしかない。そして誰もが自分こそが弱者だと思っている。「野犬」=「番犬」というのは本作のテーマを明快に表す優れた象徴だ。
一方、「犬探し」と「野犬・番犬」の関係はどうか。「犬探し」は「運命論」、即ち「理不尽な暴力を受け入れること」であるのに対し、「野犬・番犬」は「反運命論」、「理不尽な暴力に抗うこと」であり、正反対の関係であるように見れる。しかしながら、両者は同じ犬として表現されている。それは何故か。
紺屋が野犬のことを「もとより、話の通じる相手ではない。」と評しているのが鍵になる。つまり、「理不尽な暴力を受け入れること」も「理不尽な暴力に抗うこと」も相手を話の通じないものと考えている点で同じなのだ。
本作は「運命論」、「反運命論」双方の挫折を描き、底なし沼のようなひたひたとした絶望を描き出す。しかし、<白袴>にとっての<GEN>のように、直接会わずとも話が通じるような相手も存在する。現実は絶望的でも希望的でもない。
作者が「何一つ失うつもりなどなかった」の「何一つ」に傍点を振っているのが印象的だ。つまるところ、理不尽な暴力に対し、我々は、そこそこ抗い、そこそこ受け入れながら対話の可能性を探って、何とかやっていくしかないのだろう。
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