女王の教室 感想



 日本テレビ系列のドラマ『女王の教室』が終わった。小学校六年三組の鬼教師阿久津がスパルタ教育をし、それに神田達生徒が立ち向かうという話なのだが、最後には阿久津先生が実は良い先生だったということが判明し、大団円を迎えた、のだが、私は納得がいかない。
 このドラマの主張は次の二点だろう。

 子どもには厳しくはね返す壁が必要だ。
 全力で今を生きろ。

 私には厳しくはね返す壁なんてなかったし、てきとーに生きている。なので、こう主張されると人生を全否定された気分だ。
 教育問題が難しいのは、誰もが身をもって体験しているので、客観的議論がしにくいことだ。教育論の八割は自分が受けてきたような教育を受ければ、自分みたいな立派な人間が出来ると言っているだけであり、一割は自分の様な教育を受けると、どんなに子どもが傷つくかという恨み言で、自分以外の多くの例を踏まえて客観的に考察しているのは少ししかない。
 であるから、この二つの主張が妥当かどうか私には判断できない。しかし、主張の妥当性とは別に、二点批判をしたい。

 第一に、ドラマの主張(=阿久津先生の主張)に対する有効な反論がなされていないということ。ドラマの前半では阿久津vs神田という対立軸があり、競争社会の是非等が争点となっていたのだが、ドラマの最後では、「子どもには厳しくはね返す壁が必要だ。」「全力で今を生きろ。」という主張に対して登場人物全てが賛同し、有効な反論を打ち出す人が消滅してしまった。例えば、「反戦」とか「人を殺すな」とかいうテーマなら、それでも良いと思うのだが、この主張には「子どもは誉めて育てるべきだ。」「いい加減な生き方を否定するような社会は息苦しい」といった有効な反論があるのに、それを提示しないのは、アンフェアだろう。阿久津先生が素晴らしい先生かどうかは視聴者が決めることであって、あんなに登場人物皆に素晴らしいと誉めさせるべきではない。それは、俺の主張は素晴らしいと演説するのと同じだ。

 第二の批判は、「子どもには厳しくはね返す壁が必要だ」として、そのためにはスパイを使ったり、デマを流して生徒間の対立を煽ったりする必要があるのかということだ。「子どもが悪いことをしたら厳しく叱る。」とか「礼節を叩き込む。」といった主張には、そうかもと思うが、「子どもに社会の現実を教えるため、陰険なことをする。」必要があるという主張はおかしい。あれは製作者が「陰険なこともする必要があるのだ。」と言いたかったのではなく、ドラマを盛り上げるためにやったことのはずだ。なら、先生がなんであんな陰険なことをしたのか、納得のいく説明があってしかるべきだ。

 しかし、私がこのように教育について考えさせられたのも、阿久津先生が不条理だったからだ。このドラマは視聴率が高かっただけでなく、ドラマに触発されて考え、書いている人が多かった。作中の子ども達に対して良い先生だったかは疑問だが、視聴者に対しては素晴らしい先生だったことは間違いない。



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