不完全な禅映画――風立ちぬ感想



 (本稿は『風立ちぬ』の内容に触れています。)

 『風立ちぬ』(宮崎駿監督)は禅の精神を描いた映画だ。宮崎監督はインタビューで「自分たちに与えられた自分たちの範囲で自分たちの時代に堪る限りの力を尽くして生きるしかない。」と語っている。これは禅で言うところの「一意専心」に他ならない。
 『風立ちぬ』は堀越二郎の加害責任に触れていないという批判がなされている。その批判は二郎を客観的に眺めた場合、当然である。だが本作は二郎の内面世界を主観的に描いている。主観的世界において、二郎は善悪の彼岸にいる。

 私には以前深い感銘を受けた言葉がある。それは熱心な仏教徒であるリチャード・ギア氏が「ハチ公物語」をリメークした映画「HACHI 約束の犬」の取材に対して述べた次の言葉だ。

 「ハチは待っている。主を? いや、究極的に言えば、ハチは『ただ』待っている。」

 その言を借りるなら、「二郎は作った。ゼロ戦を? いや、究極的に言えば、ハチは『ただ』作った。」と言えるだろう。

 一心に何かに打ち込んでいる時、その行為からは意味が抜け落ちる。宮崎監督は堀越二郎を描いたのではなく、一心に何かを作るという行為そのものを描いのだ。だからこの映画には普遍性がある。試写を見た名だたるクリエイター達が絶賛した所以である。

 しかし本作は禅映画として見ると不完全な所がある。二郎は妻の菜穂子や偉大な先達カプローニからさかんに承認を受ける。しかし一意専心を貫いて解脱した者であれば他者からの承認など必要ない。行為自体に喜びがあるからだ。
 恐らく実在の堀越二郎は解脱者に近い存在だったのではないだろうか。宮崎監督もひたすらにアニメーターとして一意専心してきた人だ。引退会見では「アニメーターは、風がうまく描けたとか、光の差し方がうまくいったとかで二、三日は幸せになれる。」と語ってもいる。作ること自体の喜びを主体に据えて作品を作ることもできたはずだ。

 しかし宮崎監督は他者から認められないという煩悩を捨てられなかった。さらに、私を含む多くの観客もまた解脱していないが故に、他者からの承認が描かれていないと満足できない。それ故に宮崎監督は禅映画としては不要な恋愛要素を持ち込んでしまった。
 もし宮崎監督がただひたすら堀越二郎の人生を忠実に描いたならば、完全な映画が完成しただろう。しかしそれはごく少数の解脱者にしか受け入れられなかっただろう。

 『風立ちぬ』は不完全な、煩悩にまみれた私たちの映画なのだ。

ひとつ前のアニメ感想(劇場版とある魔術の禁書目録エンデュミオンの奇蹟)に進む
トップページに戻る
東雲製作所評論部(感想過去ログ)