ケータイ小説と森博嗣
ダヴィンチの2007年7月号のケータイ小説に関する小特集は興味深かった。ケータイ小説の読者による座談会が掲載されていたのだが、その中で彼女達は、「縦書きは読みにくい」「(ケータイ小説以外の小説は)今、起こっていることが描けてない」と発言していた。これを読んですぐ思い出したのが森博嗣氏のことだ。森氏もウェブサイトで、「縦書きは『作りもので嘘っぽく思えてしまう』」と書いている。
また、ダヴィンチの記事では、解説者がケータイ小説はお約束をクリアしている、として、「〜だわ」「〜じゃ」といった口調を既存小説のお約束として挙げていたが、森氏もそうした口調を「あまりにも現実とかけ離れていて、リアリティがない」と指摘している。
さらに、両者とも既存の文壇が評価する文学賞とは無縁だが、多くの読者に支持されている点も共通している。
これまで、ケータイ小説はライトノベルの延長上にあるものとして捉える言説が多かった。東浩紀氏のインタビュー(というよりこれは福嶋亮太氏の意見か)や橋本勝也氏の「具体的(デジタル)な指触り(キータッチ)」(群像新人賞の評論部門受賞作)などだ。図示すると以下のようになる。
一般小説⇒ライトノベル⇒ケータイ小説(右程動物化が進行)
しかし、ケータイ小説の読者の認識は以下のようであるらしい。
ケータイ小説>一般小説>ライトノベル(左程リアリティーが高い)
ケータイ小説の読者の多くはライトノベルのことを知らないだろうが、仮に読んだとしたら、上記のように位置づけるだろう。
森氏の小説は確かに理系大学生の様子を大半の既存小説に比べ、一段リアルに描写していた。ケータイ小説もまた、ある種の少女達の様子をリアルに描写しているのかは読んでないので分からないが、読者がよりリアルであると感じているという事実は重要である。
反自然主義文学を掲げる作家は、ケータイ小説のことなど無視しても構わないが、「現実」をそのまま描写するという自然主義文学を目指す作家は、「今起こっていることが描けてない」という批判を真摯に受け止める必要がある。
ケータイ小説への批判としてしばしば持ち出されるのが、「技法が稚拙」だということだが、それは根本的批判とはなり得ない。なぜなら、既存の小説が嘘くさいと感じている読者は、その中で用いられている技法をも嘘くさいと感じているだろうからだ。例えば、既存小説ではしばしば「伏線」という技法が使われるが、実生活において、「あの出来事はこれの伏線だったのか」などということは殆どないだろう。
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