やおい的にも楽しい国家の罠
『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて(佐藤優著、新潮社)』は四百頁を一気に読ませる。当事者にしか書き得ない外交の裏側や拘置所生活が克明に描かれているし、ノンフィクションなのに、フィクションもかくやという波乱万丈ぶりだし、出てくる登場人物たちがまたキャラの立った曲者揃いだし、国家とは、権力とは何かという哲学的問いが発せられているし、と面白ポイントのてんこ盛りだ。特に、「小泉政権成立後、日本は内政的にはケインズ型公平分配制作からハイエク方傾斜配分、新自由主義へ、外交的には国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへ転換した」という指摘は、その転換の問題点が浮き彫りになってきた2008年現在に読むと、より鋭さが見えてくる」。だが、本作は2005年3月の出版で、既にネット上にはきちんとした書評が出揃っているので、今さら普通のことを書いてもしょうがない。そこで、私は本作が腐女子的にもおいしい本であると主張したい。本作は主に三つのカップリングから成っている。
1鈴木宗男×佐藤優
本作のメインのカップリング。鈴木氏のためにハンストをしたり、鈴木氏のことを思って涙をながしたりするシーンに二人の繋がりの深さが現れている。
2インリン×佐藤優
ソ連守旧派のインリン第二書記は佐藤氏に手ほどきをしてくれた薄幸の先輩キャラで、出番こそ少ないものの、美しいキスシーンがある。冗談の様だが本当である。
3西村尚芳×佐藤優
西村氏は担当検事であり、筆者最大の敵のはずなのだが、やたら魅力的に描かれている。特に、最後の別れのシーンは、互いの互いを思う気持ちがにじみ出ていて胸が熱くなる。
本書がやおい的にも読めるのは、出来事よりも人間関係を主題に据えたキャラクター小説だからだ。重要なのは本書で描かれている人と人との結びつきが国家にすら断ち切れない程強固であることで、やおい的に読むかどうかは単なる読み手の問題である。本書で描かれた絆について、愛情こそが最高の関係と考える人は、愛情であると感じ、友情こそが至高のものだと考える人は友情と捉えるというだけのことだ。
司馬遼太郎氏の小説に対し、「国を少数の英雄が動かしているかのように書いているが、実際に動かしているのは無数の民衆だ」、という批判がなされることがあるが、本作を読むと、外交が滅茶苦茶個人的関係に左右されていることが分かり、愕然とする。外交はもっと合理的判断によってなされていてほしいのだが、そうでもないらしい。ただ、外交を頑張ることで、どういうメリットがあるのかは難しい。例えば、筆者はエリツィン退陣やゴルバチョフ生存の情報をいち早く入手したことを外交成果として誇っているが、いち早く入手したことで、日本にどういう利益があったかというと難しい。もちろん、入手しないよりはした方が良いに決まっているのだが、費用対効果ということを考えると、それ程頑張らなくても良いのではないかと思ってしまう。
本作の特徴は悪人が出てこないことだ。もちろん、筆者が逮捕されるや手の平を返した外務省幹部や袴田茂樹氏、行き当たりばったりな田中真紀子氏などは批判的に描かれているのだが、筆者は彼らには彼らの主張や事情があるということを認め、単なる悪人とは描いていない。特に印象深いのが、自分を国策捜査で陥れた検察庁への評価の高さだ。インテリは通常、自分とは違う主義主張の人に対する評価は低くなりがちだが、筆者は、自分の主義主張や立場を棚上げして、人としてどうかという観点から見ることができる。この視点が本書最大の学びどころだ。
PS.ぐぐったら、『国家の罠』がやおいものだと指摘している人が他にもいた。
→『国家の罠』のひどい感想を書くよ。
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