見に行く価値――日本国宝展感想
終了目前に、東京国立博物館の「日本国宝展」を見に行った。昼過ぎに到着すると、90分待ちの行列が出来ていた。だが、夕方にはほとんど並んでいなかったから、一番混んでいる時間に来てしまったようだ。
出品目録を見ると119点もの国宝が一同に会したとのことで、あれも国宝、これも国宝なのでだんだん感覚が麻痺してくる。日本国宝展を見た後、本館の展示を見に行ったのだが、展示品が重要文化財だったりすると、何だ、国宝じゃないのかよ、と思ってしまい、いやいや、重要文化財だって十分すごいわ、と自らをたしなめた。
確かに国宝は貴重である。これは間違いない。だが、国宝であれば全てが見に行く価値があるものかというと必ずしもそうでもない。国宝の条件は美術的に優れているというより、希少性があることだからだ。
例えば、文書類の内、書として優れていないものは特に生で見る価値はない。見てもただ、これが○○か! と思うだけである。また、絵巻物や小さな絵画も生で見る価値は薄い。油絵のように立体的ではない日本画は、作品の写真から得られる情報と、作品そのものから得られる情報の差が小さい。専門家なら紙質などから多くのことを感じ取れるのかも知れないが、私は別に画集で見れば良くないか、と思ってしまった。
逆に、わざわざ見に来た価値があったと感じたのが立体物、特に大きな彫刻だ。何点かの彫像はケースから出され、手を伸ばせば触れられるような距離で展示されている。私が心動かされたのは観音菩薩坐像だ。横から見るとむっちりとした二の腕が間近にあって、友人と並んでいるような親しさを感じた。こんな体験は中々できるものではない。
全体を見て感じたのは奈良、平安美術のレベルの高さだ。縄文時代の土偶も現代人と全く感覚が違うという点で刺激を受けたが、奈良、平安美術は現代の作品と比べても全く遜色がない。科学の成果が蓄積していくのに対し、美術の腕は一代限りなのだ。
古代の仏師は国や寺院の庇護を受けていたのに対し、現代の画家や彫刻家はそれだけでは食っていけない人が多い訳で、当時より文化レベルが上がっていると言えるのかどうか考えさせられた。
トップページに戻る
東雲製作所評論部(感想過去ログ)