のび太は素晴らしいのか駄目なのか――凍りのくじら感想





(『凍りのくじら』の抽象的ネタばれを含みます。)
 『凍りのくじら』(辻村深月著、講談社文庫)は写真小説だ。写真よりも鮮やかに一瞬を切り取った文章が、深い余韻を残す。特に理帆子が写真集をめくるシーンは、一気に心を持っていかれた。

 一方で、『凍りのくじら』はドラえもん小説でもある。私もドラえもん好きなので、理帆子が語るドラえもんのエピソードにうれしくなった。だが、最も印象深かったのは、作者と私とで、ドラえもんに対する捉え方が全く逆であることだ。
 主人公たる理帆子はのび太にドラえもんがいて良かったのかに対し、こう述懐する。
「優しく、人の気持ちが考えられる素晴らしい個性。それを育てたのはドラえもんだ。言うまでもなく、私は肯定派。のび太にはドラえもんがいて、良かったに決まってる。」
 もちろん、ドラえもんはのび太の成長物語としての側面を持つ。「さよならドラえもん」でのび太が見せる頑張りは胸を打つ。だが、私がドラえもんを好きなのは、成長せず、駄目なのび太が、それでも肯定されている温かさだ。
 『凍りのくじら』にも若尾という駄目な男が登場するのだが、彼の駄目さはのび太のような笑いを誘う駄目さではない。心の冷えるような駄目さだ。そして若尾の駄目さは最後まで肯定されることはない。『凍りのくじら』は理帆子が自分の駄目さを克服して成長する物語だからだ。
 どちらが正しいのだろうか。きっとどちらも正しい。駄目では駄目だが、駄目でも良い。成長しなくてはならないが、成長しなくても良い。人はその狭間で生きている。

 平易でありながらあらゆることを読み取れる豊かさ。ドラえもんは素晴らしい。



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