「クジラを捕って、考えた」感想



 『哲学思考トレーニング』(伊勢田哲治著、ちくま新書)は様々な扇動情報が飛び交う現代において、間違った議論を鵜呑みにしないためのサバイバル方法を説いた、有益な本だ。中でも、最も重要だと思ったのが、本書が勧める「クリティカルシンキング」とは「情報の送り手と受け手両方の共同作業の中で、社会において共有される情報の質を少しでも高めていくためのものの考え方」であるという点だ。テレビ番組では、何かについて議論することイコールバトルであり、どうやって相手を言い負かすかが競われていて、私もそういうものだと思い込んでいた。だが、議論はよりましな回答を探すための共同作業だという主張には、目を開かれる思いがした。
 数日後、図書館から借りてきた『クジラを捕って、考えた』(川端裕人著、PARCO出版)はまさにクリティカルシンキングを実践した本だ。本書は著者のデビュー作で、南氷洋で半年間調査捕鯨を行った日新丸に同乗した記録だ。最近は小説家として知られている筆者だが、ノンフィクションである本書も受ける印象は殆ど同じだ。丁寧な取材と客観的な視点、そしてささやかなリリシズム。
 本書では、捕鯨に関して実に様々な視点が提示される。鯨を捕ることに一生を奉げてきたベテラン船員。てっぽうさんに憧れる新人船員。鯨を殺すのに胸を痛めつつも、調査捕鯨は鯨のためになると葛藤している科学者。捕鯨全般に反対するグリンピースの人。イルカのヒーリング効果を訴えている人。捕鯨反対論者にも、人類が共倒れになることを懸念する「環境保護」論者と、「動物愛護」論者とがいること。調査捕鯨ではどの鯨を捕るか乱数で決められるため、妊娠した鯨や子鯨も多く捕られていること。モリが当ってから死ぬまでの時間、キリングタイム。グリンピースがマスコミアピールのため調査捕鯨を妨害すること。IWC(国際捕鯨委員会)非加盟国の船に日本人指導員が乗り込んで海賊捕鯨を行ったシエラ号事件。「鯨が十分にいると分かっているのに捕っちゃだめだなんて言うのは西洋人のエゴだ。」と思っていた私も、様々な事実を知ると、考え込まざるをえない。
 捕鯨問題では、商業捕鯨賛成派と反対派との間に『哲学思考トレーニング』が言う所の通訳不可能性(二つのグループがまったく違う世界観で世界を見るために基本的な出来事でさえも違って見え、そのために話が通じなくなるという状態)が生じている。しかしながら、多くの人が相手の意見に耳を傾け、自分の意見に固執せず、よりましな解決策を探る努力をすれば、著者の暫定的結論たる「環境保護のための捕鯨」のような建設的な第三の道が生まれるのではないだろうか。

 本書は極力客観的に書かれた本だが、全く別のベクトルの魅力も併せ持っている。それが時たま零れ落ちる叙情性だ。特に最後に甲板員が語った輪廻の話は、客観的なデータだけでは計れないこの世の理を感じるような高みに一気に連れて行かれ、涙が出た。川端さんは、卓越した客観性と叙情性を有している。そして、作家として、客観性と叙情性以上に大切なものなど一体何があるだろうか。



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