空と萌え――空と無我感想




 『空と無我 仏教の言語観』(定方晟著、講談社現代新書)は恐るべき本だ。論理一つを武器に、ここまで人間と世界の奥の奥まで切り込んだ本を他に知らない。本書でも論じられている通り、論理の言葉で到達できる領域には限りがある。より深遠に迫るには文学などの芸術に頼らねばならない。にも関わらず、筆者は論理の言葉一本で、論理の言葉が届くぎりぎりの所を見極めようとする。

 最も印象深かったのは、ナーガールジュナの言葉、「行くものは行かず」について論じた下りだ。
 なぜ「行くもの」は「行かない」のか。

 あらゆる現象は、それ自体分割できない全一なものである。しかし、それを言葉で表象しようとすると、われわれはまずそれを主体と動作に分割し、あらためてそれを結合するという手続きをとらねばならない。その結果、「行くもの」(主語)が「行く」(述語)という言表が成立する。

 しかし、「行くもの」も「行く」も存在しないのだという。著者はそのことを「太郎は行く」という文を例に説明する。太郎は常に「行く太郎」や「ころぶ太郎」であり、動作とは無関係の抽象的な「太郎」は存在しない。同様に、「行く」もつねに何ものかが行くのであり、「行く」という動作それ自体は存在しない。確かにその通りである。
 映画などの視覚的メディアでは、「行く太郎」というものをそのまま表現することができるが、小説では難しい。日本語の場合、主語を省略することができるので、他の言語より主体と動作の分割があいまいである。しかし主語を省略しても述語を取り出している以上、ナーガルジュナの批判を逃れることはできない。
 森博嗣氏は小説を読むとき、それを全て頭の中で映像に変換するというが、それは小説という主体と動作に分割された情報を、全一な状態に再構成しているということであり、仏教的に正しい小説の読み方だと言える。

 また、著者による「空」と「無」の説明も印象深い。
 著者は大学の教室でまずかばんを教卓の下に置く。その後おもむろにかばんを教卓の上に置く。しかるのちかばんを教卓の下に戻す。最初に学生が教卓の上を認識していた状態が「空」であり、最後の状態が「無」である。
 仏教ではとらわれのない「空」が目指すべきものとされる。そう考えるとおたくというものは「空」の対極の存在ではあるまいか。何故なら、おたくは大量の情報に基づいて判断を下すからだ。東浩紀氏が言うところのデータベース消費である。
 例えば、おたくはしばしばアニメの作画を京都アニメーションの作画などと比べて「ぼろぼろだ。」などと批判する。しかし、「空」の精神で見れば――生まれて初めてアニメを見た人のように見れば――例え客観的にはぼろぼろの作画でも、「おおっ、絵が動いているぞ! 」と感動することができるのだ。
 ただし、常に「空」が「データベース消費」より優れている訳ではない。何故なら、作り手がぼろぼろの作画で満足してしまったら、進歩しないからだ。

 以上の二点から、「小説」に関して「データベース消費」をする者、即ち「ライトノベルおたく」が「仏教僧」と対極の存在であるという結論を得た。「萌え」と「空」を修すれば森羅万象を把握することができるのかも知れない。



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