ライトノベルにカバーをかけるおたく気質



 第弐齋藤土踏まず日記の公共交通機関のなかでライトノベル読むときはカバーをかけろ!を発端に、外でライトノベルを読む時カバーをかけるかが話題になっている。私は断固かけない派だ。カバーで隠すということは、自らがおたくだということを恥じているということ。カバーをかけないことで、社会の偏見と闘い、おたくが差別されるという状況を打破するのだ!
 だが、そこまで考えた時、先日閏さんと話したことを思い出した。私が、「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けないと言われたら、おたくは反論しないと駄目なんじゃないか。」と言った所、閏さんは、自分のダメさを自覚している所がおたくらしさではないか、という主旨の反論をした。実際、おたく達は自分たちが不当な差別を受けるマイノリティーだとは思っていないふしがある。そして、そういう態度は結果的に賢明なのだ。
 フェミニストに代表されるリベラル派の人は、社会に存在するマジョリティー―マイノリティーの構造を明らかにし、マジョリティーに闘争を挑むことで、マイノリティーの地位を向上させようとする。そして実際、その闘争によって雇用機会均等法のような成果を勝ち得てきた。だが、この戦略には問題もある。対立の構図を作ることで、マジョリティー側の態度を硬化させてしまうことだ。多くの人は「お前は間違っている。」と指摘されたら、内心そうかなあとは思っても、なかなか素直に負けを認めないものだ。長野の田中県政も、対立を作り出すことで、問題点は明らかになったが、再建する段になると、敵とされた人達の反発を招いて苦労しているようだ。
 その点、おたくは賢い。社会から隠れてじわじわと勢力を拡大し、気がつけば萌えという言葉は一般にも浸透し、外務大臣は漫画おたくで、おたく産業は重要な輸出向けコンテンツで、という風に社会にしっかり根を張っている。高らかに権利を主張しないから、マジョリティーも「まあ、好きにすれば。」みたいな感じで拡大を放置し、その結果、マジョリティーもおたく気質に染まりつつある。もはや根絶しようと思っても手後れだ。
 リベラル派の闘争方針を「剛」とすると、おたくは「柔」だ。何時の間にか相手の懐に入り込み、制している。何という恐ろしさ!
 だが、何にしても、齋藤光治氏の主張は、せっかく柳に風の精神で歩んできたおたく内部に対立構造を持ち込む内ゲバのようなものなので、感心しないと思います。



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