喪男の哲学史感想



 本田透さんの主張は多くの人に誤解されている節がある。
 「人は二次元だけで生きていける。三次元恋愛は不純で醜悪だ。萌え最高! DQNやそれに群がる女など滅びてしまえ!」
というようなパンクなことを叫んでいると思われがちだが、それは日本の現状へのカウンターとして言ってみせているにすぎない。実際は、
 「組織化された一元論は人に序列を作ってしまう。ピラミッド構造を作り、他者を差別することで幸福になるようなシステムは間違っている。」
という極めて穏当なことを訴えているのだ、ということが良く分かるのが『喪男の哲学史』(本田透著、講談社)だ。
 哲学史を「モテ」と「喪」、「三次元」と「二次元」の対立史として「脱構築」した本書のキャッチコピーは「偉大な思想家はみんな喪男だった!」。ほんまかいな、と思いつつ読み進めると、出てくる哲学者がみんな生涯独身だの生涯童貞だのばかりで意外と説得力がある。この哲学者はまるでモテなかった、というような情報は通常の哲学史では本筋とは別の、気楽な挿話と見なされているが、その哲学者がどうして人間とは、世界とは、と考え始めたのか、を想像すると、モテなかったから、というのは非常に説得力のある動機だと思うのだ。本書の魅力は哲学が腑に落ちる言葉で書かれている点だ。

 『(電車男のヒットによって)今度はオタクの中に「モテるオタク・イケてるオタク」と「キモオタ」という二つの身分が作られたわけです。(中略)たぶんインドのカースト制度もこのような身分の分割を繰り返してきたのです。』とか『ブッダが女性を忌み嫌ったのは「女なんかが俺のサークルに入ってきたら、サークルクラッシャーになっちまうわ!」という護身の本能が働いたのでしょう。』など、どの程度本当かは分からないが、納得のいく説明だ。
 特に『ガン×ソード』のヴァンとカギ爪の男の対立は、ヘーゲルの「セカイ系哲学」とキルケゴールの「キモイ系哲学」の対立だ、という箇所が秀逸だった。私は『ガン×ソード』を見ながら、「何で童貞である以外何の魅力もないヴァンのような男がモテるんだ!」と怒っていたのだが、ヴァンは喪男なので、モテていたのはむしろ試練だったのだと分かり、目から鱗であった。
 また、『「プラトンは、芸術を『イデアの模倣にすぎない現実をさらに模倣している』と否定していたではないか」というご意見を持たれる方もおられるでしょうが、それは違います! すでに明らかにした通り、アキバ系の萌えキャラは「現実の模倣」ではありません。「イデアの具象化」、つまり抽象芸術なのです。』という箇所は、「まんが・アニメ的リアリズム」論にも敷衍できるものだ。

 ただ本田氏の主張に全面的に賛成というわけでもない。
 本田氏は三次元で喪男でも二次元で救われると主張しているが、作家などの一部の人を除けば、起きている時間の大部分を三次元に取られているので、三次元も楽しくなるように努めないとトータルで見ると幸せにはなれないんじゃないか、ということを日々実感している。本書によると、三十五歳で喪男が一本切れるそうなので、それまでには何とかしたいものだ。



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