AがBになる――少女七竈と七人の可愛そうな大人感想



 鮮烈。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(桜庭一樹著、角川書店)は血の滴る刃物のような小説だ。特に呪いの如き美しさ、小説でしか書き得ぬ美しさを持った主人公川村七竈の美しさが鮮烈だ。その美しきかんばせ同様、彼女の紡ぐ文章も美しい。読んでいて吐息が乱れる程に。七竈の美しき一人称。それを支えるのは静謐でありながら生き生きと躍動する音の連なり。
 そして視覚的表現だ。

 背後から甘い、恋する人の匂いが漂っている。興味をもってわたしの、そして雪風のかんばせをみつめる、無数の目も。私は瞳を閉じ、もっと、と願ってさらに強くまぶらに力をこめる。ホキ二億形の黄金色に輝く車体と、たっぷりと詰め込まれた麦の山が揺れながら大地を走るところを想像する。がたたん、と小声でつぶやくと、となりで雪風も、ちいさな声でささやく。
 ごととん。


 しかしこの美しき文章は七竈ならぬ桜庭一樹にしか描き得ぬもの。我は盗み得る技から学ばねばならぬ。

 この小説を読んでいて驚いた個所が三つある。そこではミステリー作家桜庭一樹の技が発揮されている。
 (この後、抽象的なメタばれがあるので、注意されたし)
 まず第二の場面、登場人物Aが実は登場人物Bであると分かって七竈がびっくりするシーン。登場人物BはカテゴリーXに属する人物であり、一方、登場人物Aは叙述トリックによってカテゴリーYに属すると思い込まされているので、A=Bだと気付くのは容易ではない。ここで上手いのが、AがカテゴリーXの人物だとばらした後、たたみかけるようにA=Bだと明かしている点だ。A=Xだと明かされるのは緊迫した場面なので、読者はAの正体について推理を巡らす暇が無い。そのため、読者をまんまとA=Bの衝撃で驚かすことができるのだ。
 同じタイプのミスリードは実はもう一個所でも使われている。それが第一の場面だ。しかし、こちらではあえてじわじわとA=Bを明らかにすることで、読者にほのぼのとした印象を与え、小説全体の鮮烈さを中和している。
 そして第三の場面。これがこの小説で最も衝撃を受けたシーンであり、ある意味第一、第二の場面と同じ構造を持つのだが、どんなミステリーマニアでも、これを予想するのは不可能だろう。何故ならAは直前までBではないからだ。AがBに変ること。それがきっとこの世で一番鮮烈だ。そして小説とはAがBになるのを書くものなのだ。



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