語り手の神殺し――NO CALL NO LIFE感想




 (『NO CALL NO LIFE』の抽象的なネタばれを含みます。)
 小説において語り手は特権的な力を持つ。語り手が馬鹿だと言えばそいつは馬鹿になるし、語らなければ存在しない。その力は神にも匹敵する。
 『NO CALL NO LIFE』(壁井ユカコ著、角川文庫)の語り手で高校三年生の佐倉有海は進路調査票を提出できずにいる無力な子供にすぎないが、それでも語り手であるからには神なのだ。そのことは、作中では有海=サンタクロースとして表現されている。
 有海は神様の力を使って自分のことを分かってくれない無神経な人々を痛烈に批判する。有海の批判には説得力があり、批判された側の抗弁を聞けないこともあり、読者は他人の気持ちの分からない人=サイテーな奴という有海の主張に納得しそうになる。
 だが、小説の後半になって唐突に春川視点のパートが入る。今までずっと有海視点で書かれていただけに、この部分は完成度を損なう異物のように見える。だが、最後まで読むと、春川視点パートの意味が分かる。
 春川パートの春川は、有海から見た春川とはかなり印象が異なる。「春川の頭のてっぺんにはチューリップとひまわりがトーテムポールみたいに合体して咲いているに違いない。」といった風に描写される、有海視点の春川に対し、春川のモノローグから浮かび上がる春川はもっと真面目な常識人だ。さらに、春川パートが加わることで、クライマックスの事件の原因の一端が有海にあることが示される。だが、そのことを「有海はあえて知ろうとは思わなかった」。つまり、春川パートは有海もまた他人の気持ちの分からないサイテーな奴であることを示し、語り手の特権性を剥ぎ取る――神殺しをするためにぜひとも必要な部分だったのだ。
 結局、程度の差はあれ、自分を含め、誰もが他人の気持ちの分からないサイテーな奴なのだ。そのことが受け入れられた時、人は大人になれるのかも知れない。



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