戦いの記録――ポロポロ感想



 小説には目指す地平が二つある。一つは波乱万丈の物語。読む人を作品内に引きずり込み、読み終わるや面白かったと感嘆の息を吐かせるような、そんな至高のエンターテイメントだ。世間に出回っている小説の大半はこちらを目指している。
 『ポロポロ』(田中小実昌著、河出文庫)は全く逆を目指している。中国戦線の従軍記でありながら、戦っている相手は下痢ばかりという連作短編は、後半に行くに従って、物語との戦いの記録であることが明らかになってくる。

 あなたにとって・・・・・・という言葉が、近頃流行語みたいになっている。しかし、インチキの物語用語であることはまちがいない。あなたにとって・・・・・・と、それこそ自分には対象として外におくことなどできないもの、対象として考えられないことを、対象化しているからだ。できないことを、できたような気になり、やれないことを、やったような気になる。それは物語の世界だろう。

 なんにでも時間があるとおもうのは、ある視点にたっての、そういう見方だろう。実際には、こんなふうに、時間がないことも、ちょいちょいあるのではないか。なにかを物語るときには、どうしても、時間がいるのだろうか・・・・・・。

 なんという厳密性。なんという執拗さだろう。作者は作品から物語を排し、恐るべき注意深さで実際に起こったこと、感じたものそのものを描こうとする。こんなことを書くと、作者に「実際に起こったこと」などというのは物語の言葉だ、と指摘されるかもしれないが。

 作者は最後にこう書いている。

 しかし、物語は、なまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう。

 ならば、物書きは、物語ではない、インチキではない小説を書くにはどうしたら良いのだろうか。
 一つ考えられるのは、ごく最近の出来事を書くことだ。記憶は時間が経てば経つほど物語によって侵食され、物語的に作り変えられてしまう。ならば、出来るだけ記憶が鮮明なうちに小説にすることで、物語化を最小限に食い止められるのではないか。実際、多くの私小説家はこの戦略で戦っている。
 だが、田中氏は、よりによって何十年も前のことを小説に書く。さんざん物語に侵食され尽くした記憶の中から、物語でないものを引きずり出そうとする。何故、田中氏はあえて不利な条件で戦おうとしたのか。推測するに、物語との戦いに勝つことが目的なのではなく、読者に戦いそのものを見せたかったのではないだろうか。 

 以前に書いたが、テレビアニメ版『朝比奈ミクルの冒険』もあえて不利な条件で戦っている。実写でやれば簡単な「自主制作らしいへっぽこな映像」を多大な労力を払ってアニメで再現している。これも作り手は作品内容を見せるというよりは、労力を見せたかったのだろう。

 『ポロポロ』における作者と物語の戦いは、わずかでも注意を怠ると、あっという間に命を取られてしまうような、ほんとうにぎりぎりの戦いだった。そんじょそこらのバトルものが裸足で逃げ出すような、本当の戦いだった。



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