桜大戦――あるいは砂糖菓子の弾丸をめぐる戦い



 桜庭一樹さんと桜坂洋さんが合作をすると聞いた時、これは砂糖菓子の弾丸をめぐる思想闘争になるな、と思った。

 桜庭一樹さんは、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』で、砂糖菓子の弾丸を実弾と対比させ、砂糖菓子の弾丸では戦場を生き抜く力にはなれないと主張した。ここでの「砂糖菓子の弾丸」とは一つには「子ども」であり、もう一つは「フィクション」である。子ども+フィクションと言えば、ライトノベルなどのおたく文化だ。つまり「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」とは「ライトノベルでは戦場を生き抜けない」ということだ。
 同じ事を大塚英志さんは『物語消滅論』の中で「ライナスの毛布」と呼んでいる。ライトノベルなどのサブカルチャーは「不確定な「私」の一時的な避難所であって「私」を構築する強制力はない」ものとして定義されている。

 一方、桜坂洋さんは、『All You Need Is Kill』や『スラムオンライン』でゲームのことを擁護し、ゲームをやっている時間も現実世界を生きている時間と同様かけがえの無いものだと主張している。
 その根拠として桜坂さんは、バーチャルな世界での体験も唯一のものであることをあげる。そのことは、スラムオンラインの次のモノローグに現れている。
「ネット上の架空の町にあったあの場所は、たったひとつだけで、しかも、テツオとジャックが死力を尽して戦ったあのときにしか存在しなかった。」
また、同時にゲームをしていた時間がかけがえの無いものだという主張が、広く受け入れられるものではないことも自覚しているからか、当事者にしか理解されなくても良い、という結論にたどり着く点も、両作品に共通している。
「ぼくときみのどちらが最強なのかは、ぼくときみだけが知っていればいいことだ。」
という訳だ。

 桜庭さんの『少女には向かない職業』は桜坂さんへのアンサーとして書かれている。それは、主人公大西葵がゲームを通じて思い人の少年とつながっており、最後の武器として『All You Need Is Kill』で主人公キリヤが使っていたのと同じバトルアックスが選ばれていることから明らかだ。
 ぎをらむさんが本作に対し、大塚英志さんの言説を引用して、「<虚構>はけっして<山>や<都市>の代わりとはなりえない」ことを書いていると分析した通り、桜庭さんは、桜坂さんに対し、「確かにゲームはかけがえの無い体験かも知れないけど、現実の戦場を生き抜く助けにはならないよね。」と言っているのだ。
(ちなみに大塚さんは、「物語消滅論」では、「文学」こそが大量生産の消費財たるサブカルチャーでは救済しきれない人を救済するもの(=実弾)の役割を果すべきだということを主張している。人身御供論は未読なので、氏の主張が変化したのかは分からない。)

 そこで合作だ。以上の経緯を踏まえ、私は声を大にして言いたい。

 桜坂さん頑張れ!


 砂糖菓子の弾丸が大好きな私としては、「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」という主張より、「砂糖菓子の弾丸はかけがえの無いものだ。」という主張が勝利する方を望むに決まっているからだ。

 ところで、砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けるか問題に関して私自身が真摯に答えるなら、「そもそも私が戦場にいないので分からない。」と言うしかない。
 「砂糖菓子の弾丸はすべて撃ち抜けない」という主張なら「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けることもある」という反例を一つ挙げれば良いので、間違っている。本田透さんが砂糖菓子の弾丸たる『ONE』の川名みさき先輩によって救われたと証言しているからだ。
 ただし、『砂糖菓子の弾丸は殆どが撃ち抜けない』という主張なら多分正しい。これは特に根拠はなく、私がそう感じているだけだ。
 だが、撃ち抜けないからといって戦場で役立たずだとは限らない。どこで読んだか忘れたのだが、鬱の人に対しては、言葉を尽して話すより、「ラーメン食いに行こう」という方が有効なのだそうだ。だとすると、砂糖菓子の弾丸で幸せな気分になることは、実弾をよりも戦場を生き抜く力になるのかも知れない。
 また、そもそも、現実世界を戦場にしないことの方が、戦場になってから実弾を支給するより重要であり、それは小説の仕事ではないという考えもある。
 こういう風に考えると、合作は「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けないがかけがえのないものだ。」という内容になるのかも知れない。とにかく楽しみだ。



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