少女小説出で来はじめの祖――更科日記感想
中学の古文の授業で、十一歳の主人公が「物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と身を投げ出してお祈りするところを読んで以来、ずっと読もう読もうと思って読まないでいた『更科日記』(菅原考標女著、原岡文子訳注、角川ソフィア文庫)を遂に読んだ。読まないでいる間に期待が膨らんで、更級日記は古典文学にしてはかなりの傑作だろうと思い込んでいた。間違っていた。過去、現代、未来問わず、物語好きなら囚われずにはいられない、超傑作であった。
フィクションの世界に囚われた少年少女が現実と対峙するという話はライトノベルでも重要なテーマで、例えば『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』なんかがそうであるが、千年近く前に書かれた更級日記も全く同じテーマについて書かれていることに驚く。実在の人物のくせに、作者の物語耽溺ぶりは読子=リードマンや天野遠子にもひけを取らない。もし菅原考標女が現代に生まれていたら、絶対コミケで同人誌を売っているであろう。フィクションにのめり込むというのは現代的なことではなく、衣食足りていればどこでも起きることなのだと感じた。
ライトノベルは終始青少年の視点で書かれているが、更級日記は少女の頃の想いを鮮やかに描きつつも、作者は老女なので、第二の視点が生じ、それが作品に深みと苦味を与えている。物語のような一生を送るという夢破れ、一人淋しく老いた作者は、物語に耽溺していないで、信仰に打ち込んでいればとさかんに後悔する。それは作者が一生をかけてたどり着いた結論で、だからこそ容易に反論を許さない重みがある。しかし作者はそう言いながらも、自分が物語に耽溺する様を愛しげに書いているし、自ら『夜半の寝覚』などの物語を書いてすらいる。きっとフィクションにのめり込むという行為は、その人の本性と結びついていて、転職するようには変えられないものなのではないだろうか。
訳文で読むと二十分くらいで読めてしまうが、かなり意味不明でもまずは原文で読むのをお勧めする。例えば作者が遂に源氏物語を貸してもらって持ち帰って読む所の
「はしるはしる、わづかに見つつ、心もまじらず几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。」
という文なんて、本好きなら共感せずにはいられないだろう。
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