東雲文芸24――神学論争
神父ゲイ
「司祭様、告白したいことがあります。」
「何だね。助祭。」
「私は気づきました。自分がゲイであると。」
「待ちたまえ、助祭。カトリックにおいて、同性愛が禁止されていることを知らぬわけではあるまい。」
「もちろんです。しかしながら、確かにそうなのだから、しょうがありません。」
「むう。それで、その、何だ。私にそれを告げたということは、私に対する告白なのか。」
「ええ、最初に告白であると告げたではありませんか。」
「いや、そういう意味ではなくてだな。私を好いているのかということだ。」
「いえ、全然。司祭様の低い鼻、禿げ上がった頭、ぼてぼてと太った体、どれもこれも私の好みとはかけ離れています。」
「失敬な。だが、失敬ではあるが安心した。では、私以外の誰かに思いを寄せているということか。」
「いえ、私には特定の思い人はおりません。」
「ならば、行きずりの男性を見ると興奮するのか。」
「そんなことはありません。我が心は常に平らかに保たれております。」
「それではどうして自分がゲイであると思ったのかね。」
「どうしてもこうしてもありません。それが自明であるからです。」
「そんなわけがあるか。何か根拠があるはずだろう。」
「では、司祭様は神の存在を信じますか。」
「当たり前ではないか。」
「では、その根拠は。」
「・・・・・・聖書に書かれているからだ。」
「私がゲイであることも、我が手帳に書かれています。」
「聖書の文言と君の手帳に君が書き込んだ文言を同一視するのか! 」
「何ものかによって書かれたという点では同じではありませんか。むしろ私が申し上げたいのは、神の存在は、聖書によって知るのではなく、直感的に知るものだということです。」
「むう。それではまるで、私の方が不信心者であるかのようではないか。分かった、君がゲイであることは認めよう。いや、司祭として認めるわけではないぞ。君の認識がそうであることを認めるのみだ。」
「有難うございます。」
「その上で聞く。何故君はそのことを私に告げたのだ。」
「それが事実であるからです。」
「いや、通常、自らがゲイであるとカミングアウトするには理由があるはずだ。理由としてまず考えられるのが、カップルを探すためだ。だが、君はそうではないのだろう。」
「もちろんです。私は敬虔なカトリック教徒でありますゆえ。」
「もう一つ考えられるのは、ゲイに対する差別や偏見をなくするため表明する場合だ。君の場合はこれに当たるのかね。」
「違います。私は敬虔なカトリック教徒でありますゆえ。」
「ならば、一体、何故私に告白したのかね。」
「ならば逆に問います。今朝お会いした時、司祭様は『今日も良い天気だね。』とおっしゃりました。それは何故ですか。」
「良い天気だったからだ。」
「それと同じことです。」
「全然違う。私の挨拶には何の意味もないが、君のは罪の告白ではないか。」
「ならば、私は一生、何の意味もないことのみを話して過ごせば良いのでしょうか。」
「何故、そう極端に走るのかね。私が言いたいのは、君は秘密を他人に打ち明けてすっきりしただろうが、私は君から罪の告白を聞かされて大変迷惑だということだ。」
「何というお心の狭さ。それが聖職者の務めではありませんか。」
「一般人相手ならばそうだ。だが、この場合、君も聖職者ではないか。」
「なるほど。ならば、司祭様も私に何か罪を告白なさればよろしいのでは。」
「うむ。ならば言うが、私は地球人ではない。宇宙人だ。ほうれ、この通り。」
「確かに。ですが、司祭。宇宙人であることは、カトリックで禁止されておりません。」
「むう。ならば言うが、私は未来人だ。ほうれ、この通り。」
「確かに。ですが、司祭。未来人であることは、カトリックで禁止されておりません。」
「むう。ならば言うが、私は超能力者だ。ほうれ、この通り。」
「確かに。ですが、司祭。超能力者であることは、カトリックで禁止されておりません。」
「むう。ならば言うが、私は――」
(09.02)
トップページに戻る
ひとつ前の東雲文芸に進む