School Days的「すごい所で投げっぱなし最終回」の薦め
TVアニメ『School Days』の最終回(12話)が放送中止になった。私はここ数回だけ見ていたのだが、11話は不穏な空気が漂ったすごい所で終わっており、一体どんな最終回になるんだ! と期待して待っていただけに、放送中止は驚きだった。最終回はDVDには収録されるだろうから、買うなり借りるなりすれば見れるのだろうが、TVで見ていた人の大半はそうまでしては見ないだろう。そういう人にとっては、あの不穏な11話が実質的な最終回ということになる。そうなると、これはかってない斬新な最終回である。
結末が示されずに終わるフィクションは存在する。例えば東野圭吾氏の『どちらかが彼女を殺した』はミステリーなのだが、容疑者二人のうち、どちらが殺したのかという解決編を書かずに終わっているらしい。しかしこの場合、作中に犯人特定のための手がかりが全て示してあり、読者は自力で犯人にたどり着ける。従って、読者が複数の結末を想像して楽しむ仕様にはなっていない。
また、複数の可能性が示されて終わる物語の形式としてリドルストーリーがある。有名なリドルストーリーに『虎か女か』というものがある。要約すると、こんな感じだ。
姫と平民の若者が恋に落ちた。国王はそれを許さず、若者を闘技場に引き立てた。若者の前には二つの扉があり、どちらかを開けるよう迫られる。片方には虎が入っていて、開ければ食い殺される。もう片方には美女が待っていて、そちらを開ければその美女と結婚できる。若者が観客席を見ると、姫が片方の扉を選ぶよう合図を送っている。若者は扉に手をかけた。
しかし、この場合も、結末の可能性は基本的には二通りに絞られており、読者の想像する余地は狭い。
『School Days』の場合、当然そうなるべき結末が存在するわけではない。放送中止になった理由から、女子高生が殺人を犯すことは分かっており、普通に考えれば言葉が誠を殺すのではないかと思うが、世界が殺すのかもしれないし、大勢いる他のヒロインが殺すのかもしれないし、誠以外の誰かが殺されるのかもしれない(言葉、誠、世界というのはキャラクター名)。読者はあらゆるパターンの結末を想像することを強いられる。こんな結末がかってあっただろうか。
最も似ているのは『新世紀エヴァンゲリオン』の結末だ。TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の最終回は主人公碇シンジの内面世界における対話が延々と続き、内面に関してはすっきりとした結末を迎える。しかしながら、シンジの内面以外のストーリーに関しては全くの投げっぱなしであったため、ファンの間で様々な結末が想像され、膨大な二次創作を生んだ。人は本能的に欠落を見ると埋めたくなる。結末が欠けていると視聴者は自分なりの結末を作り出して欠落を埋めようとする。多くの二次創作が作られる作品とは、人気作と殆ど同義だ。すなわち、結末をここぞという所で投げっぱなしにすることは、人気作となるための有力な手段なのだ。
最近、「結末の欠落」を意識的に仕掛けただろう作品が登場した。『コードギアス 反逆のルルーシュ』だ。TVシリーズが一旦終了した23話も反乱軍と帝国軍の激突直前というすごいところで終わっていたが、間をおいて放映された25話のラストはすさまじかった。ルルーシュとスザクという宿命のライバル二人の生死をリドルストーリーにしているのみならず、あらゆる主要キャラの運命が宙ぶらりんな状態で最終回となったのだ。結果、視聴者の間では喧々諤々の議論が繰り広げられた。
ただし、コードギアスの場合、続編の制作が決定しているので、後に正典が示されることになるし、エヴァンゲリオンにおいても劇場版においてストーリーの結末が補完された。打ち切り等の外的な要因ではなく、製作者の意図として完全な投げっぱなしで終了し、製作者による補完が行われていない例は私の知る限り存在しない。何故だろうか。
一つには読者、視聴者から怒涛の抗議が寄せられて難渋することが目に見えているからだろう。しかし、その代償として大ヒットする可能性があるのなら、大量の抗議や批判を受けることなど何ほどのことだろう。
もう一つ考えられるのは、作者は物語をきちんと終わらせて読者を現実世界へと戻す責務がある、というモラルの問題である。しかしながら、『シスタープリンセス』のように、この話はずっと続くよ、という終わり方をする作品は沢山あり、制作者が読者が現実世界に戻れなくなる危惧を真剣に抱いているとは思えないし、よほどの作品でなければ、その心配は杞憂だろう(真剣に抱いていたのはエヴァンゲリオンの庵野監督くらいではあるまいか)。
このように考察してみると、School Daysにおいて図らずも実現した「すごい所で投げっぱなし最終回」は試してみる価値があるのではないかと思う。誰かやらないだろうか。
トップページに戻る