知らないをめぐる論考――静物感想




 『プールサイド小景・静物』(庄野潤三著、新潮文庫)は表題になっている作者の代表作二つを含む七編が収められたお得な短編集だ。中でも「静物」は『若い読者のための短編小説案内』の中で村上春樹氏が「庄野潤三は、おそらくはこの「静物」という短編小説をひとつ書いただけで、文学史に残る作家であり続けることでしょう。」と称える傑作だ。静物は十八の家族スケッチから構成されており、一読しただけでは、多少不穏な所のあるほのぼのした話、といった程度の印象しか受けない。だが、再読すればするほど、隠れた部分が浮かび上がってくる。村上氏は『若い読者のための短編小説案内』の中で静物を、「上を向いている」「ほぐしがきかない」といった作家ならではの視点で読み解き、特に、中折れ帽を中心に分析している。
 私は、氏が指摘しなかった点を中心に読み解きたい。

 (以下で、静物の内容に触れています。自分で一から読み解きたい人は読まないで下さい)
 静物に集められた掌編の大半は、「知らない」ことについて描いている。「知らない」理由は様々だ。意識がなかったり、夢中になっていたり、幼いが故に理解できなかったりと本人に原因がある場合もあれば、音がやかましくて聞こえなかったり、死角になっていて見えなかったりといった外的原因もある。
 一つ目の掌編で、女の子について、「あの日の朝、部屋の隅っこに縫いぐるみの仔犬と一緒にころがっていた。」という描写がある。まるで女の子が縫いぐるみの仔犬と同じく物でしかないような書き方で、どきっとさせられる。続く文では、「何が起こったかを知らないで、みなし子のようにころがっていた。」とある。どうやら、この日の朝、細君が自殺未遂をしたらしいのだが、そのことを知らない女の子は、縫いぐるみの仔犬と同じような静物でしかないということを描いているのではないだろうか。
 我々は、相手の内面を想像して人と付き合うことで、人と物とを区別している。だが、本作の父親は細君の内面を全く分からなかったが故に自殺未遂に追い込んでしまった。一見、子供とのほのぼのとした交流が描かれているが、底には相手の内面を知ることは出来ない=人は物と変わらないというあきらめが流れているように感じられる。

 村上氏が指摘しているように、静物には奇妙な謎が多い。父親がモノローグで述べた「よそ見している時にかかった金魚だ。大事に飼ってやらなくては。」もその一つだ。何故、よそ見している時にかかると大事に飼わねばならないのだろうか。
 細君の自殺未遂を知らない女の子のような=静物の状態では、責任が発生しない。その考えを敷衍すれば、よそ見している時(=自分が知らない時)にかかった金魚なら、意識して釣った場合よりも責任が薄いように思える。だが、父親はよそ見している時にかかったからなおさら大事にしなくてはならないと考えている。何故か。
 推測するに、これにも細君の自殺未遂が関係している。細君が自殺未遂をしたのは父親が見ていない時だ。以前の父親は、自分が知らないことに関しては責任はないという考えだったのかも知れない。だが、細君の自殺未遂を機に、自分が知らない内に起きた出来事に対しても責任を取らねばならないと思い知らされた。さらに言えば、暗部を知らなくても許される子供と違い、家父長たる自分は知らないこと自体に罪があるのだと思い至ったのかも知れない。そこから、「よそ見している時にかかった金魚だ。大事に飼ってやらなくては。」という言葉が出てきたのではないだろうか。

 ちなみに、もう一つの代表作『プールサイド小景』は「サラリーマンが心休まる時は、水着姿の女子高生を見る時だけだ。」という内容である。嘘だと思った人は読んでみると良いだろう。



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