ライトノベルの幸せな時代は過ぎ去りぬ――セキララ!! 感想
えんため大賞第9回奨励賞受賞作、『セキララ!!』(花谷敏嗣著、ファミ通文庫)は「過去にネットで書いて黒歴史になっていた小説のヒロインが現実に登場する」という、ネット界隈の人には身につまされる内容の小説だ。と同時に、本作はライトノベルの現状に対する批評にもなっている。
かつて、主人公の拓巳が書いていた『邪王戦聖記』は非常にベタな熱い小説で、ネットの連中はそれに没入して楽しんでいた。しかし、現在の拓巳は当時の自分を客観視して恥じており、『邪王戦聖記』を読み返しても素直に楽しむことができない。これは、おたく全体の軌跡と一致している。『スレイヤーズ』の頃までのおたくは、ベタな物語に没入して楽しむことが出来たが、現代のおたくは、蓄積されたデータベースが邪魔をして、「ああ、この展開は○○と同じだ」という風に、すぐに醒めてしまう。久実本はそんな現代おたくを象徴するキャラだ。久実本が、チャットでマジレスした拓巳に「もうすこし、空気読みましょうよ」と突っ込むシーンは、痛く、悲しい。
私は、最近まで、書いていた小説の調べ物で、仏教関連の本を読みまくっていたのだが、それによると、仏教の「悟り」というのは単に、何かに集中・没入した状態のことであるようだ。そして、逆に、自意識によって自己を客観視している状態――メタな視点――は悟りを妨げる害悪であるとされている。私自身は、メタな視点が必ずしも悪いとは思わない。苦痛に襲われた時、「ああ、これはルサンチマンだな。」などと、自分の感情を分析できれば、自分の行動が制御しやすくなるし、不幸をやわらげられるからだ。しかし、幸福に関して言えば、仏教の主張は正しいように思う。やっぱり、没入している時の方が、醒めた視点でいる時より楽しいに決まっている。
現代のおたくはヒロインについてもその性格を素直に信じることが出来ない。最近のライトノベルのヒロインは、ツンデレだったり、ヤンデレだったり、クーデレだったり、実は腹黒かったりと、二面性のある、大きな欠陥を抱えたキャラばかりだ。本作の火琉奈のように、美人で頭も良くて性格も良いようなヒロインは、もはや、フィクションの中のフィクションにしか存在することができないのだ。
本作は、ネット界隈のおたくの生態をセキララに描き出す一方で、王道な展開もあり、楽しい小説だ。しかし、ライトノベルの幸せな時代はもう終わってしまったことを突きつけられるという点で、読後感はほろ苦い。
(08.06)
トップページに戻る