最近の東雲
猫と逢う
角を曲がると猫がいた。昨晩もそこにいた。昨晩と同じようにこちらへ寄ってくる。僕も前に進む。昨晩と同じようにすぐ脇をすれ違う。昨晩と同じように振り返ると、向こうも立ち止まってこちらを見ている。
昨晩はそのまま別れてしまったが、今晩はじっと見つめてみた。見詰め合う、とこちらにとことこ寄って来た。ズボンに体を寄せ、ぐるぐる回る。僕も腰を曲げて毛並みを撫ぜる。猫はそれで満足したのか僕から離れ、僕が歩き出し猫も歩き出し、そのまま別れた。残業続きで疲れきっていたのが、満ち足りた気分に変わった。
ここで問題です。僕と猫との間にコミュニケーションは成立したのでしょうか。
争点となるのはコミュニケーションとは相手の考えを理解することなのかどうかだ。
僕は猫が何故寄って来たのかは分からない。餌をねだっていたのかも知れないし、単に人恋しかったのかも知れないし、知っている人と間違えたのかも知れない。結局の所それは永遠の謎で、逆に猫にとっても何で私が寄って来たかは分からないだろう。しかしながら、お互いに寄っていきたかったのは事実である。コミュニケーションにおいて、それ以上のことが必要だろうか。
全く同じようなことを保坂和志さんが書いている、というと順序が逆で、保坂さんが書いているという石川忠司さんの指摘を読むやいなや上記の事件が起きて、「「目が合う」とか「お喋りし合う」とかのたんなる物質的「共同作業」が即コミュニケーション」だという主張が瞬く間に附に落ちた、というのが正しいのだが、この主張、側にいることのみで貴重な価値が生成されるという希望に満ちた主張であると共に、結局の所、相手の考えを理解することなど無理だと言う諦観を含んだ絶望から出発した主張でもある点に留意したい。
相互理解が可能かというテーマは、様々なテーマ、例えばロボットは人間のパートナーになれるかといった問題につながっている。あかほりさとるさんが『セイバーマリオネット』で、CLAMPさんが『ちょびっツ』で、押井守さんが『イノセンス』で、一緒に生きていくのが機械であっても良いという主張を打ち出す中、『そして楽園はあまりに永く』で機械では駄目だという反論を打ち出した浅井ラボさんはおそらく相互理解の可能性に望みを繋いでいるのだと思う。それは間違いとか正しいとかいう問題ではなく、その人の人間性の問題であり、作者によって違った結論がでるのが正しいたぐいの問題である。
あの猫とはあれから逢っていない。
(05.8)
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