貴族になれない私達――斜陽感想
「斜陽」(太宰治著、新潮文庫)を読んで感じたのは、人からどう見られているかを気にしないことの難しさだ。
「最後の貴婦人」たるお母さまは、お食事のいただき方が頗る礼法にはずれていたりと、人からどう見られているかをまるで気にしていない。
一方、「高等御乞食」である直治やかず子は、貴族に憧れながらも、人からどう見られているかをいたく気にせずにはいられない。
もちろん、お母さまのように生活能力がなくては生きていけないから、ある程度人目を気にすることも必要だろう。だが、人から良く思われたいと思うばかりに心を痛めていることの何と多いことか。
直治の「僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。(中略)けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いたとき、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。」という吐露は、今でも全く血の滲むような痛切さを失っていない。
かず子は最後に手紙を書く。
「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」
お母さまや直治と違い、かず子は最後に骨太な境地に達した。だが、残念でならないのは、そのことを人にアピールしたことだ。
もし、かず子が、「この世の中の諸々は女がよい子を生むためにある」と内心悟るだけで手紙に書かなかったら、貴族になれただろう。だが、実際のかず子は最後まで人目を気にせずにはいられなかった。それがほろ苦い。
(09.05)
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