派手な技法から内面まで――小説の技巧感想
『小説の技巧』(デイヴィッド・ロッジ著、柴田元幸・斉藤兆史訳、白水社)は五十章に渡って、小説の様々な技巧について実例を引いて解説した本だ。
本書に登場する英語圏小説が次から次に奇抜なテクニックを披露するのを見ると、日本の小説がいかに限られた技巧しか用いていないかが分かる。
例えば、「は流れ、イヴとアダムの教会を過ぎ、」と文の途中から始まり、欠落した部分が「彼方より愛を浮かべ、孤高にして最後の川」と末尾に来る『フィネガンズ・ウェイク』。
登場人物が全てブルー、ホワイトといった色の名を持つ『幽霊たち』。
読者に前の章を読み返せと要求したり、会話の途中で章が変わったりする『トリストラム・シャンディ』。
さらには冠詞をほとんど使わなかったり、eを使わなかったりと、英語圏の作家は実に様々な実験を試みている。
日本にも、筒井康隆、井上ひさし、清水義範といった変な小説を書く作家がいるものの、先進性では英語圏に及ばない。何しろ、希代の変てこ小説『トリストラム・シャンディ』が書かれたのは1760年頃。日本はまだ江戸時代である。敵わないのもしょうがない。
もっとも、『コミック・ノベル』なる、英国の笑える小説からの抜粋を読む限り、ギャグの繰り出し方がおとなしく、
化物語は現代文学の先端の一つという主張はあながち大げさではないのかもとは思うが。
本書では上記のような派手な技法だけでなく、より実用的な技法に関する解説もためになる。
例えば「物語は(中略)受け手の頭の中に疑問を呼び起こし、答えの提示を遅らせることで関心をひきつけておこうとする。その疑問というのは、(誰がやったんだ?というような)原因に関するものと(次にどうなる?というような)経緯に関するものとの二種類に大別されるが、それぞれ古典的な探偵小説や冒険小説にきわめて明確な形で現れる。」と整理し、前者をミステリー、後者をサスペンスと呼んでいる箇所や、
「感情移入が大きく妨げられる」といった問題から「十九世紀から二十世紀への変わり目ごろに、作者の介入による語り方は急速に人気を失ってしまった」がポストモダンの作家たちは「伝統的リアリズムへの妄信を破棄すべく」作者の介入を用いるという説明は勉強になる。
中でも「小説において意識を描く際に主要な技法が二つある。一つは内的独白で、これは談話構造の文法的主語が「私」であり、我々は、登場人物が自分の頭の中で生まれる意識をそのまま言葉にしているのを、いわば脇で聞いている格好になる。(中略)もう一つの方法は自由間接文体といい、(中略)思考内容を報告のような形で、(三人称、過去形で)描写しながら、語彙は思考の主体である登場人物に合ったものを用い、(中略)(「と彼女は思った」などの)伝達節を省略する。」
と意識を描く技法の深化について触れ、後の章で
「物語文学のさまざまな形のなかで、小説は主観を伝える力において群を抜いていると述べた。(中略)その後の小説ジャンルの発達史にしても、少なくともジョイスとプルーストまでは、人の意識をさらに深く、さらに微妙に探っていく過程としてみることができる。したがって、作家がわざわざ。人間の行動の表層にとどまっていることを選びとっている場合、我々はその心理的深みの欠如を、たとえその理由がすぐにはわからなくても、驚きを伴った注意深さとともに――時には不安とともに――眺めることになる。」
とその反動から現れた技法について解説する下りは、試行錯誤を繰り返してきた先人達の大きな流れが感じられる。
小説の技巧に関しては、今後も様々な試行錯誤が繰り返されるだろうが、人の内面をいかに描くかは中心的なテーマであり続けるだろう。
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