あまりに文学的な――平清盛感想




 NHK大河ドラマ『平清盛』が面白い。隅々までこだわった映像、スタイリッシュな音楽、力の入った演技、人の業をえぐるような深みのある脚本。大河ドラマとしては出色の出来だ。だが、視聴率は極めて低いらしい。その原因はいくつかあるが、最大の原因は脚本にあるだろう。『平清盛』の脚本は、日本国民の数十%に向けて放映されている大河ドラマとしては文学的すぎるのだ。文学というものは、疎外感を持っていたりと、精神的苦境に立たされている人のためのものであり、普通に幸せを謳歌している人には必要ないものだ。文学を必要としているのは日本人の十%くらいではないか。多くの人が見たがっているのは、ヒューマニスティックな物語であり、文学ではない。『平清盛』のストーリーは、多くの視聴者のニーズとずれているのだ。
 文学的であるとは何か。多くの考え方があるが、私は「論理の言葉で説明できない領域を扱っているもの」だと考えている。鳥羽院と待賢門院璋子が互いに想いを寄せながら、傷つけ合っているのは、論理的に説明できないが、実感としては分かる。佐藤義清が幼い娘を蹴り倒したのは実感としても分からない。荒れ狂う内心と穏やかすぎる環境のギャップに耐えきれなくなったのかな、とは思うものの、理解できない。家族であれを見ていて、子供に「何で義清は子供のことを蹴ったの? 」と聞かれたら、たいていの親は答えられないだろう。私も答えられない。そりゃあ視聴率も落ちるよ、と思う。
 だが、これで良いのだ。NHKは視聴率が悪くてもスポンサーが降りて、番組を作れなくなったりしないのだから。多くの人が望んでいなくても、佐藤義清のように絶望に囚われた人が見れば、ここに俺がいる、と感じて命を救われるかも知れない。それが文学だ。私は応援しているぞ。

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