太陽感想



 アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』を見に行った。『太陽』と聞いても何のこっちゃな人が多いかも知れないが、イッセー尾形が昭和天皇を演じたやつと言えばあれかと思う人もいるだろう。公開館が少ないこともあってか、銀座シネパトスはびっちり満員で早めに来ないと座れない程だった。
 映画は最後の御前会議の日から始まるのだが、神である昭和天皇は服のボタンを留めるのものろのろとした老侍従に任せねばならず、天皇の発言も回りくどく、画面も暗くて眠たくなった。だが、占領軍がやってくると、とたんに天皇はいきいきし始める。マッカーサーとは英語で対等に渡り合い、米兵達の記念撮影に応じたりと子どものようなチャーミングさを見せる。前半の退屈さは昭和天皇自身の退屈さを表していたのだ。そう考えると、ハリウッド方式の、試写会で観客が退屈しているシーンをカットするやりかたでは、この映画は成立しなかっただろう。
 この映画はフィクションであり、実際の昭和天皇がどうだったのかは分からないが、実際にこうだったのではないかと思わせる真実味がある。ここで描かれる昭和天皇は、徹底して無垢な存在であり、また、生まれながら窮屈な神に仕立て上げられた被害者だ。そう考えると、政府の人間達が必死に天皇を守ろうとし、昭和天皇が戦争責任を問われなかったのも分からないでもない。この映画はかなり昭和天皇に好意的であり、日本での公開が危ぶまれていたのが信じ難い。だが、 監督は戦争責任の部分も描写しており、天皇が無邪気であるが故に、犠牲者との落差が一層痛ましい。昭和天皇の悩みは現代日本のレベルから見れば気の毒ではあるが、戦地や空襲で死んだり飢えで苦しんだりしている当時の一般の人々と比べればあまりに軽い悩みに過ぎない。
 トップをかわいらしいものにしてその下が実権を握るというやり方は、絶対的権力者を好まない日本人らしいやりかたではあるのだが(exアリアカンパニー)、責任の所在もまたあいまいになってしまう。私自身かわいいもの好きで責任嫌いなので、耳が痛かった。



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