全てがぐはあになる――戦う司書と恋する爆弾 感想



 小説の面白さとは何だろう。
 泣けたり笑えたりすること? 意外性のある展開? 格好良いキャラクター? 興味深い蘊蓄? 小説への没入感? 完成度? それとも深いテーマだろうか。
 違う。それらは小説の個々の要素にすぎない。小説の面白さを決めているもの、それは「ぐはあ」だ!
 何のこっちゃとお思いかも知れないが、つまり小説を読んでいてどれだけ「ぐはあ!」と感じるかが小説の面白さを決定付けていると言いたいのだ。

 『戦う司書と恋する爆弾』(山形石雄、集英社スーパーダッシュ文庫)は「ぐはあ」の塊のような小説だ。まず冒頭からして極上だ。主人公、コニオ=トニスは胸に爆弾を埋め込まれ、お前は人間ではなく爆弾だと洗脳される。コニオが生きている意味はただ一つ。胸の爆弾を起爆させ、ハミュッツ=メセタを殺すことだけだ。「人間爆弾」、こんな非人間的扱いの主人公が他にいるだろうか。私は『ブラックロッド』くらいしか思いつかない。
 そしてコニオが殺す相手のハミュッツ=メセタがどんな奴かというと「武装司書」である。武装司書!、お前は読子=リードマンか! ところがハミュッツはあんなぽけぽけした人ではない。人間爆弾をあっという間に皆殺しにして「・・・・・・まあこんなもんねえ」とか言ってるような奴なのだ。

 ぐはあと唸らせるのはキャラクターだけではない。「死者の全てが『本』になる」「図書鉱山」「神溺教団」「竜骸咳」「百年に一度の大嵐」そして「夕日」。私は読みながら心の中で何度も「ぐはあ!」と叫んだ。これらの設定は単に奇を衒ったものではない。例えば「死者の全てが『本』になる」という設定。これは死にたくない、死ぬのならせめて何らかの形で生きた証を残したい、誰かに自分のことを覚えていて欲しい、という人間の根本的欲求に基づいている。だからこそ、この設定は人間爆弾の恋を呼び、ストーリーの主軸として流れ出して読者の心を揺さぶるのだ。

 設定の瑕疵を潰したりといった技術的な能力は、キャリアをつめば向上する。だが、「ぐはあ」を生み出す能力は作家がいくら求めても、なかなか高まるものではない。
 「ぐはあ」の泉、山形さんの次回作が、今後が楽しみでならない。



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