ささやかなことと重大なこと――戦う司書と荒縄の姫君感想





 ささやかなことと重大なことを衝突させる手法は、小説の常套手段だ。『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(渡部直己著、太田出版)によると、村上春樹氏がこの手法を得意としており、例として『風の歌を聴け』から
「そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」
という下りを引いている。

 『戦う司書と荒縄の姫君』(山形石雄著、集英社スーパーダッシュ文庫)でも同じ技法が用いられている。戦う司書シリーズ第一章のクライマックスたるこの巻ではバントーラ図書館vs全世界の死闘という滅茶苦茶重大なことが描かれている。全世界と戦うなんて、小説においてこれほどスケールのでかいバトルがかつてあっただろうか。にも関わらず、その原因は非常にささやかな個人の想いにある。
 『風の歌を聴け』と比較すると、『戦う司書と荒縄の姫君』は重大さとささやかさの落差がより激しいという違いがある。
だが、より重要なのは規模ではない。村上氏が「彼女の死」という重大なものを強調するために「煙草」を配したのに対し、山形氏はささやかなものを強調するために重大なものを配しているように見える点だ。

 この巻のヒロイン、ノロティが姫になった理由もささやかだ。だが、人生の進路を決める理由は往々にしてささやかなものなのではないだろうか。世の中には重大な事件をきっかけに世界を左右するような重大なことを為す重大な人も存在する。だが、そんな人はごくわずかだ。大抵のひとはささやかなことしか為すことができないささやかな人達だ。ノロティは結果的に重大なことをしたが、そのことが世界を揺るがす重大なことだからしたのではない。客観的にはささやかであっても、ノロティにとっては重大だったからしたのだ。そこに心打たれた。

 本書で最も好きなところはエンリケが「………お前には一つ、見えていないものがある」と指摘するシーンだ。本書のテーマが鮮やかに凝縮されているのに感嘆すると同時に、自分にも見えていないのではないかと自省させられた。



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